「信越本線(しんえつほんせん)」の終着駅、「横川駅(よこかわえき、群馬県安中市)」へとやって来ました。

「緑濃い景色」が大変、印象に残ります。
さて、前回の記事で、この「横川駅」は「信越本線における重要な拠点駅のひとつ」ということを述べました。
現在では「行き止まりのローカル線の終着駅」なのですが、かつてはこの駅から「長野県境」にそびえている「碓氷峠(うすいとうげ)」を越え、「軽井沢駅(かるいざわえき、長野県北佐久郡軽井沢町)」まで線路がつながっていました。
ところで、この「横川駅」がある「信越本線」という路線、名称にあるように、旧・律令国の「信濃(しなの)」と「越後(えちご)」を経由することから、それらの頭文字をひとつずつ取って命名されたもので、かつては「高崎駅(たかさきえき、群馬県高崎市)」から「新潟駅(にいがたえき、新潟市中央区)」を結んでいました。
しかし、「長野新幹線(現在の北陸新幹線)・高崎~長野間開業」(平成9年10月)、「北陸新幹線・金沢開業」(平成27年3月)により、これらに並行する「信越本線」の一部区間はいわゆる「並行在来線(へいこうざいらいせん。新幹線の開業により、それに並行する在来線の運営をJRから切り離し、官民が設立する第三セクターへ移管する方式)」となり、結果、各地で分断されることになり現在に至っています。
具体的に示してみますと…

(出典:Wikipedia 「信越本線」の項より。
赤色は「信越本線」、青色は「信越本線」から「第三セクター」に移管された区間)
長野駅
↓
29.7km (JR信越本線)
↓
横川駅
↓
11.2km (路線廃止 平成9年9月30日)
↓
軽井沢駅
↓
65.1km (しなの鉄道線 平成9年10月1日/JR信越本線から事業転換)
↓
篠ノ井駅
↓
9.3km (JR信越本線)
↓
長野駅
↓
37.3km (しなの鉄道 北しなの線 平成27年3月14日/
↓ JR信越本線から転換)
妙高高原駅
↓
37.7km (えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン 平成27年3月14日/
↓ JR信越本線から転換)
直江津駅
↓
136.3km (JR信越本線)
↓
新潟駅
ということで、かつて「信越本線」という「一つの路線」だったのが、「6区間に分断される」という事態になりました。
そんな、近年の目まぐるしい変遷の中で、「横川~軽井沢間」は「長野新幹線開業」により廃止されたのですが、この区間のみ「第三セクター鉄道」に転換されなかったのは、この区間が「大変特殊な路線、運転形態」であったことが一因として考えられます。

「横川~軽井沢間」は「群馬・長野県境」とも置き換えが出来るのですが、ここには「妙義山系」の「碓氷峠(うすいとうげ)」という、大変急峻な山々がそびえています。
この区間に鉄道が開業したのは「明治26(1893)年4月」、これを以って高崎から長野までが鉄道で結ばれることとなったのですが、当時は「急勾配が連続する碓氷峠を越えて鉄道が走る」ということは技術的に「実現不可能」と思われていたようで、例えば、長野県で有名な「信濃の国」という歌でも、このことが取り上げられています。
あずま やまとたけ なげ たま うすいやま
吾妻はやとし大和武 嘆き給いし碓氷山
うが とんねる ゆめ こ きしゃ みち
穿つ隧道二十六 夢にも来ゆる汽車の道
(意訳)日本武尊(ヤマトタケル)が関東平定のための戦の折、安房国(現在の千葉県)で入水し亡くなった妻を偲んで「吾妻はや(わが妻よ)」と嘆き悲しみ、後にしたここ碓氷山。その険しい道のりに二十六ものトンネルを掘り、ついぞ汽車が来るなど夢のようだ。
ちなみに、この「信濃の国」という歌は「長野県の県歌」で、県内では「知らない人が居ない」と言われるほど知名度が非常に高いことで知られています。
(参考)
長野県公式ホームページ 「県歌 信濃の国」↓
マイナビニュース 「長野県民は全員、県歌”信濃の国”を歌えるってホント!?」↓
前置きが長くなりましたが、この「横川駅」ではその「碓氷峠越え」のために補助の機関車を連結、解放する作業が行われており、併設して「機関区」が設けられていました。

「機関区」は現在では廃止されてしまいましたが、それを活用した「碓氷峠 鉄道文化むら」という施設があらたな名所となっています。
こちらを見学してみたいと思います。
次回に続きます。
今日はこんなところです。