JR東日本 全線完乗への道!その23 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。
シリーズでお送りしています「JR東日本 全線完乗への道!」、その続きです。

旅は「第3日目」、「宇都宮駅」(栃木県宇都宮市)から北へ、その途中から分岐する「烏山線(からすやません)」に乗車しています。

さて、前回の記事で「宇都宮駅から乗車したディーゼルカー、布袋様のイラストが描かれていた」というくだりで終了していました。

どうも「縁起が良い」ということはわかったのですが、これはどういうことか・・・と思いつつ、「宇都宮駅」から10分弱走ったところで、その「答え」が少しずつわかりました。

イメージ 17

到着したのは「宝積寺駅(ほうしゃくじえき)」(栃木県塩谷郡高根沢町)。
この駅名、「宝を積む」と読めますね。


イメージ 18

「地図のいらない宝探しを烏山線がご案内します」・・・
「烏山線ホーム」には、このような楽しそうなイラストがありました。

イメージ 22


この「烏山線」は、ここ「宝積寺駅」から「烏山駅」までの「20.7km」を結ぶ路線なのですが、沿線には「大変縁起の良い名前の駅」が並んでいます。

駅数も、起点駅の「宝積寺駅」を除くと「7つ」ということで、それぞれの駅に「七福神の方々がキャラクターを務めておられる」、ということになっています。


イメージ 19

「宝積寺駅」を出発。「宇都宮線(東北本線)」が離れて行きます。
「縁起の良い烏山線」、果たしてどのようなことが待ち受けているのでしょうか。

イメージ 1

「烏山線」に入りました。途端に、このようなのどかな田園風景が広がります。
少し曇り空になって来たのですが、風があり心地よい感じです。

さて、その「烏山線」の「縁起の良い駅」を一部ですが、見て参りたいと思います。

イメージ 20

こちらは「大金駅(おおがねえき)」(栃木県那須烏山市)。
あまりにストレート過ぎる名前で、ちょっと驚きますが・・・

イメージ 21

そして「滝駅(たきえき)」(栃木県那須烏山市)。
「弁財天(べざいてん)」が龍に跨っていますが、近くにある「竜門の滝」に由来した駅名です。

さて、この「烏山線の縁起駅名」については・・・

「各駅停車全国歴史散歩10 栃木県」
(小川 和佑著 河出書房新社編 昭和56年6月初版 絶版)

から拾ってみたいと思います(記載内容は当時のものです)。

縁起切符の駅
小塙(こばな)・大金(おおがね)・鴻野山(こうのやま)

縁起切符の駅
 「幸福」駅の切符がブームを呼んだ後、この「大金」が縁起切符として収集家たちの注目を集めた。現在では烏山線の「大金」や、宝を積む「宝積寺」が正月に縁起切符として売り出されている。
 烏山と大金の間には滝・小塙の二つの無人駅がある。明治二二年の市町村制施行以前、大金は那須郡の大金村だった。(中略)
 大金は南那須郡の最南端で、那珂川の支流の荒川が大きく蛇行する低地に開かれた稲作農業地帯。経済の高度経済成長期にも大企業の工場進出といったこともなく、旧大金村時代の共同体がそのまま保たれている。
 二両編成のディーゼルカー気動車が鴻野山へ向かって発車してしまうと、ホームには、私一人がとり残された。駅舎を出る。目の前は荒川の湾曲部である。この川筋には簗があって、鮎が獲れる。地図を見ると、東西の丘陵地帯に挟まれた低地を、荒川は大きく蛇行している。この豊かな水と肥沃な土が、この一帯に農饒をもたらしたのであろう。(後略)
(出典同 P126)

「大河と肥沃な土地」というようなこの周辺の特徴があってかどうか、そこからこのような目出度い地名がつけられたのでしょうか。

イメージ 2

ははあ・・・と感嘆しきりのうちに、終着の「烏山駅(からすやまえき)」(栃木県那須烏山市)に到着しました。

イメージ 3

ホームは一面ですが、反対側には使用されていないと思われるそれがありました。
嵩が低いので、かなり古い時代のもののようです。

イメージ 4

この駅にも「七福神」、「毘沙門天」が居られました。勇ましいイラストです(^O^)

イメージ 6

終着まで乗車して来たのはわたしを含め4、5人ほど。
学校帰りの高校生がほとんどという感じでした。

イメージ 7

駅前には「商店街」、「タクシー営業所」など並んでいましたが、下車客が街路に散っていくに連れて次第に静かになって行きます。

イメージ 8

さて、毎回おなじみの「案内板」がありました。

イメージ 9

「那須烏山市」はこの「烏山駅」が中心駅となっており、同時に「古くからの街並み」も、この駅を周辺として広がっています。
「コンパクトに主要な施設、観光地がまとまっている」という印象を受けますね。

気になる名称の施設もたくさんあるのですが・・・

では、この「烏山」については先の「各駅停車全国歴史散歩」から拾って行きたいと思います。

鮎と和紙の城下町 烏山

情緒豊かな城下町
 烏山・大久保藩三万石の城下町は和紙と煙草と鮎で知られた町である。そして、ここは「平家物語」の扇の的であまりに有名な那須与一宗高(なすのよいち・むねたか)の後裔である那須氏の本貫地でもある。明治初年の廃藩置県により宇都宮県に編入されたが、その後も、この町は那珂川の水運を動脈とし、豊かな農林資源や特産品に恵まれ、外来資本の進出もなく、明治からの一世紀半を個性を失わない城下町として生きてきた。ここでは時間がきわめて緩やかに流れている。旅行者はこの緩やかな時間の中を、日常から解放された気分で歩むに相違ない。
 烏山城は町の西北の丘陵状にある。この丘陵には坂上田村麻呂(さかのうえ・たむらまろ)が城砦を築いていたといわれるが、応永二五年(一四一八)、那須氏の総領・那須資重(なす・すけしげ)がこの丘陵に城を築いた。これが烏山城の始まりで、丘陵が臥牛山(がぎゅうさん)と呼ばれていたことから、烏山城は臥牛城と呼ばれていた。
 資重が築城しているときに、臥牛山の上空に、黄金の幣(へい)をくわえた烏が飛来し、幣を落としていったことにちなみ、以後一帯は烏山と改められた。
(後略)

この地図、すなわち「市街中心地」から外れたところなのですが、そこに「烏山城」があったようです。
平安期以降、勢力をふるった「那須氏」の本拠地です。

そんな中で、その流れを汲む「那須与一」は、殊に「屋島の戦い」(1185年)での「平氏の船に掲げられた扇の的を、弓で射落とす」というほどの「卓越した弓の腕」を持っていたことは有名です。

また「烏山」には、さまざまな「名物、名産」があるようですが、その中で古くから有名なものとして「和紙」があるそうです。

城下の旧跡をめぐる
(前略)和紙会館は中央一丁目、二丁目にある。和紙は烏山の特産品となっているが、室町時代、那須氏が越前奉書の漉立職人(すきたてしょくにん)を招いて那須奉書を書かせたことが由来という。江戸時代に入ってからは藩の奨励もあり、農家の副業として大量に生産された。その頃から、烏山の和紙は引きの強い檀紙(だんし、楮を使った高級和紙。主に、包装・文書・表具などに使用される)として好評だった。現在では福田製作所一軒が手漉き烏山和紙の檀紙を作りつづけている。烏山名物山上げの舞台も、この和紙で作られている。

(出典同 P122・P124)

イメージ 5

ここ「烏山」の「最大の名物」と言われるものが駅ホームの大きな看板にありました。

まずは「山上げ祭り」という祭事です。
永禄3(1560)年、当時の烏山城主・那須資胤(なす・すけたね)が厄病退散を祈願してはじめられたもので、以降、400年以上に渡って毎年、7月末に開催されているものですが、かなり大規模で、華やかなものだそうです。

烏山の山上げ祭り
 梅雨あけの灼熱の日に烏山の山上げ祭りを見た。この祭りは、烏山特産の和紙で大山(おおやま)、中山(なかやま)、前山(まえやま)、それに付属の四つの山―つまり、野外劇のための背景となる張ぼてを作る。それを館と呼ばれる仕掛けの上に組み立てて、これに人形彫刻のある極彩色の屋台を左に接続させて、所作狂言(しょさきょうげん。)を行う烏山独特の野外劇である。(後略)
(出典同 P125)

この記述を見ますとかなり「華美なもの」のようです。
機会があれば一度、見てみたいものです。

そして、もうひとつの「名物」は「豊かな自然ならではの産物」である「鮎」。

烏山の鮎漁
 烏山の那珂川には上流から矢沢、落石の桧、一ツ石の簗がある。この簗漁は河川の素朴な漁法だ。水流の中に上流に向けて大型の竹の簀の子を組み立てる。
すると、水流に乗って下ってきた魚が、この簀の子の上に打ち上げられる。そこで自由を失った魚をつかまえる。と、まあ自然まかせのきわめて素朴な漁法なのだが、那珂川流域では、この漁法で夏の終わりから秋にかけて、川を下る落鮎を獲っている。簀の子の上で躍ね回る鮎を手で獲えるところには、人間の狩猟本能を満足させる独特の快感がある。
 那珂川は鮎の名所で、この川筋では昔からこの漁法で落ち鮎を獲ってきた。自然逆上の天然鮎が減少した昨今では、放流鮎が多くなっているというが、那珂川の鮎釣りは、依然として釣人たちの魅力となっている。こうした難しい釣りの外に、簗を使っての単純な漁法があるということはなんとなく心楽しいことである。
 雨後の増水の後は、魚獲が多いという。落ち鮎を獲るこの簗に、大型の鰻などが打ち上げられるのもこうした雨後の増水の後である。
(出典同 P127)

わたしは釣りはしないのですが、これはすごいですね!
これほどおもしろいように鮎が獲れれば爽快ですよね。

しかし、豊かな自然がいまなお、残っているというのはうらやましいところです。

イメージ 10

さて、この「烏山駅」駅前には、この駅を発着する「烏山線」にまつわる「史跡」がいくつか残されていました。

イメージ 11

これは、「初代・烏山駅駅舎」。
駅舎の屋根に「三角型の窓」が見られますが、「ドーマー窓」というものだそうで「換気」や「明かり取り」の目的があったそうです。おしゃれな意匠です。

現在の駅舎は、昨年(平成26年)に竣工したものだそうです。

イメージ 12

続いてはこちら。駅舎入り口にあった「腕木式信号機」と「転轍機」です。

イメージ 13

ちょっと見て参りたいと思います。

まずは「転轍機」から。
「鉄道路線」には進行方向の切り替えのために「ポイント(分機器)」があります。

現在では多くの路線では「自動化」されているのですが、それ以前は「手動の切り替え」がなされていました。
その「手動の切り替え」をするに当たって使用するのがこの「転轍機」と呼ばれるもので、取っ手のレバー、その握り部分を持って左右に動かすことでポイントを切り替えしていました。

イメージ 14

そして、「腕木式信号機」です。

「鉄道信号機」も、やはり現在では「自動式」のものが殆どになっていますが、かつてはこちらも「手動で切り替えを行う」というものが多くありました。

イメージ 15

「切り替えの方法」というのはこの「信号機の下部」にあるレバーを上下させる、という簡単な仕組みです。

イメージ 16

その「レバーの切り替え」を行いますと、頭上にあるこの「赤・青」の信号灯が上下に動くようになっています。
名称の「腕木」というのは、「信号機である」という識別のために信号灯の横に取り付けられている「赤・白の長細い標識」が「腕に似ている」ということに由来していると言われています(諸説あります)。

この「腕木式信号機」は、昭和52(1977)年まで「烏山駅」で実際に使用されていたものだとのこと。貴重な「鉄道遺産」ですね。

さて、いろいろと駅前を巡って来ましたがお腹が空きました<(`^´)>
昼食は「宇都宮駅」で「駅弁」を購入していますのでここでお昼にしたいと思います。

次回に続きます。
今日はこんなところです。