みなさんこんにちは。前回からの続きです。
いよいよ、「成田山新勝寺」(千葉県成田市)にやって来ました。
全国の「成田山の総本山」であり、また古くから「霊験あらたか」なことで知られており、多くの参詣客でにぎわうと言います。
ちなみに、こちら大阪でも「成田山不動尊」(大阪府寝屋川市)という「成田山新勝寺の別院」があります。
こちらは「大阪の鬼門」(北東)に路線を延ばしていた「京阪電車」がその「厄除け」のために、この本山から分祀する形で不動尊を建立したものです(「石清水八幡宮」へ向かう「ケーブル線」以外の「京阪電車の全車両」に、この「成田山不動尊」のお札が飾られているほどです)。

ついにやって来ました。「成田山新勝寺総門」です。

「成田山」と揮毫された扁額、迫力があります。


「寺院の正面の門」は「山門(さんもん)」と呼ばれることが多いのですが、こちらでは「総門(そうもん)」と言うようです。しかし、石碑だけでも立派ですね…

それでは、「成田山参詣」に参りたいと思います。
さて、境内に入る前に、「JR九州 全線完乗の旅」でもお世話になったこの書籍のお力を、この旅でもお借りしたいと思います(^^)v
「各駅停車全国歴史散歩14 千葉県」
(千葉日報社編 河出書房新社刊 昭和58年初版 絶版)からです。
世界に開ける霊都 成田
成田山の門前町
国際的な空港都市と、お不動さまの門前町としての二つの顔をもつ成田は、東京から快速電車で約七○分の、北総台地中央に開けている。
駅前広場から左折すると長い参道が八○○㍍ほど続き、両側にみやげ物店・旅館・飲食店が軒を並べ、参拝客を呼び込む声が飛び交う。駅前の花崎坂道を下ると仲町、そして本町の門前通りに至る。
戦災をまぬがれただけに、古い造りの老舗、旅館がそこかしこに残り、門前町の風情と活気を感じさせる。不動尊が公津ヶ原から遷座した戦国末期は、まだこのあたりは一農村に過ぎず、戸数も一七軒しかなかった。
江戸の化政年間には不動尊の諸堂伽藍が拡充され、信者も増加、ひざ元に旅籠屋や居酒屋、休憩所など専業商家が増え、門前町が形成された。文政一○年(一八二七)に旅籠屋だけで三○軒を数えたという。江戸市中に講中(※注釈:こうちゅう。寺社仏閣などへの参詣を目的に作られた庶民の寄合)が相次ぎ組成されたことと、江戸庶民のレジャーの一つに、成田詣りが組まれて、下総(※注釈:しもうさ。現在の千葉県北部付近に相当)へ下る参詣客を増大させるものとなった。
江戸から成田詣りは昔は、深川(※注釈:ふかがわ。現在の東京都江東区深川付近。)から船で行徳(※注釈:ぎょうとく。現在の千葉県市川市付近。)河岸へ上がり、そこから船橋宿まで歩いて一泊、佐倉、酒々井(※注釈:しすい。現在の千葉県印旛郡酒々井町付近。)の街道を抜けて成田の宿に着き、旅の疲れを休めて翌朝早く、不動尊で朝護摩をたいて江戸へ帰るという三泊四日の行程が普通とされた。門前町では、下総特産の栗と小豆を使った羊かん、わさび漬けや川魚料理などが名物となり、いまに伝わっている。
明治一六年、東京ー成田間に乗合馬車が通り、片道八○銭で客を運んだ。同二七年に総武鉄道が佐倉まで開通、三○年には成田まで路線が延伸され、北総の野を汽車で横断できるようになり、参詣客の便利が増した。
新東京国際空港(※注釈:現在の「成田国際空港」)の開設以来、この古き門前町も郊外に向けて都市開発が進み、外国人の参詣客も目立ってきた。空港周辺の超近代的なホテルも開業し、交通の発達も加わって、旧旅館街は泊まり客の減少を心配しているが、遠方からは団体客の誘致、旅館とレストランの兼業など、旧情打破に大わらわである。
成田山新勝寺
全国に一○〇○万人以上の信者を持つと言われる霊場成田山は、交通安全・商売繁盛などにご利益のある不動明王を本尊に祀る。駅の東北へ徒歩十五分の山内は、石段中腹の正面に仁王門、その上に大本堂、左下に新勝寺の堂々たる諸堂伽藍が並び建つ。本尊の不動明王像は、九世紀初め嵯峨天皇の勅命で弘法大師が刻み、国家鎮護を祈った尊像とある。
(中略)
江戸中期から諸堂が整備され、門前町も整った。深川に出開帳をするなど布教も行ない、信者を増やしている。当地幡谷出身である歌舞伎の初代市川団十郎(成田屋)が、出開帳に合わせて「成田分身不動」など霊験記を上演し、江戸市中に不動尊の宣伝をしたことも信者拡大に役立った。当山に参籠して願をかける者も多く、たとえば二宮尊徳翁が断食して下野桜町(※注釈:しもつけさくらまち。現在の栃木県真岡市付近)の拓殖事業を祈願し、加護をえて大事業を成功させた話など、霊験あらたかとされている。
江戸時代から現代までに本堂は四度新改築され、現大本堂は昭和四三年に総工費四六億円をかけて建築されたものだ。芸術院会員吉田五十八氏の建設によるこの本堂は、鉄筋コンクリート地上二階、地下一階、銅板葺きの壮大な寺院建築で、内陣に不動明王が鎮座する。
多数の参拝客を接待する施設として、第一、第二信徒会館と光輪閣の三つの施設が完備され、信者の受け入れ態勢も行き届いている。そして本堂裏の高台に、鉄筋五層の大塔が完成、ここは寺宝の展示と境内の展望塔として、五九年四月から開放される。
(出典同 P154-156)
と言うことで、古くから庶民の篤い信仰があったことが伺えます。
しかし、江戸時代当時の「江戸から成田山まで、往復三泊四日での参詣」とは、現在では想像もつかないですね。

さて、前置きが長くなりましたがその「総門」をくぐります。
「護摩行」の案内ですね。この「成田山新勝寺」の代名詞のようにも思えます。

こちらは「仁王門(におうもん)」です。
天保2(1831)年に再建されたという、「国指定重要文化財」です。

この門の両側には「金剛二像」が安置されており、「成田山の門」を守って来たのだそうです。
また、この大きな提灯には「魚がし」と書かれており、「魚河岸講(うおがしこう)」と呼ばれる「水産にまつわる業者の信者組合」の寄贈によるものとのこと。

その「仁王門」から「総門」を望んだところ。「巨大な灯明」が迫力です。
「総門」は、「成田山開基1070年」を期して平成19(2008)年に建立されたものだそうです。

「仁王門」を入ったところに池が、その中には「苔を成した岩」がありました。
「この岩、何かの形に似ているな」と思ったのですが…これ「カメ」でしょうか。
というか、その「カメ型の岩」の上には「ホンモノのカメ」が居ました(^O^)

「カメ型の岩」の上には光る物がたくさん見えますが、これはすべて「お賽銭」のようです。
縁起がいいですからね。

その横には「噴水」、いや「湧水」でしょうか。清々しい感を受けます。

その「二つの池」を後に、「本堂」への階段を登って行きます。
次回に続きます。
今日はこんなところです。