JR東日本 全線完乗への道!その7 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「成田空港第3ターミナル」に到着後、市内へ向かおうというところです。

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さて、この「第3ターミナル」には「鉄道」や「リムジンバス」などが乗り入れていないので、これらを利用するためには「第1・2ターミナル」へ移動しなければなりません。

これら「ターミナル間の移動」は徒歩でも可能なようなのですが、「無料連絡バス」があるので、そちらを利用することにしました。

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「第3ターミナル乗り場」からこの「黄色のボディ」の「無料バス」に乗車すること約10分ほど、「この旅最初の目的地」に到着しました。

ただ、やって来たのは「ターミナルビル」ではなく、それに隣接する「成田空港駅」でも「空港第2ビル駅」でもありません。

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「防護ネット」や、その先の「第5ゲート」という「コンクリート製の堅固な建物」がものものしいのですが・・・

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実は、この「第5ゲート」というのは「駅の出入口」です。

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到着したのは「東成田駅(ひがしなりたえき)」(千葉県成田市)です。
「成田空港の敷地内」に位置し、「京成電鉄」と「芝山鉄道」という会社が乗り入れています。

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「成田空港」をめぐる「鉄道駅」の様子を、地図で見て参りたいと思います。

「成田空港アクセス」と言いますと、「成田空港駅」、「空港第2ビル駅」という2つの駅が設けられ、「JR東日本」と「京成電鉄」がそれぞれ乗り入れをしています。
その「成田空港駅」、「空港第2ビル駅」というのは、平成3(1991)年に開業した「ターミナルビル直下に位置する駅」です。

ただ、この「成田空港の開業」(昭和53年5月)の際、「空港アクセス鉄道」として唯一、空港敷地内に乗り入れていたのは「京成電鉄」で、駅名も「成田空港」という名称が付けられていました。
しかし、当時の国・運輸省等の意向により、この「成田空港駅」は「ターミナルビル」から離れた場所に設けられ、「アクセス鉄道」と言うものの、駅を下車してから「有料の連絡バス」に乗車、または徒歩移動でないと「ターミナルビルに行けない」という「中途半端な状態」になっていました。

その後、先述した「成田空港駅」と「空港第2ビル駅」の開業で、「アクセスの向上」が図られるとともに、そちらが「本線」となり、「空港開港時」に設置された「成田空港駅」は「主要アクセス駅」としての役目を終え、「東成田駅」と改称、現在の状況に至っている、という訳です。

先の地図を見てみますと、「開港当時の空港ターミナル」は現在の「成田空港駅」の直上にあるもののみでしたので、この「東成田駅=旧・成田空港駅」からは「幾分の距離」があることがわかります。

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ということで、この「東成田駅」は、平成3(1991)年までは「成田空港駅」だったので、駅構内にはかつての「メイン駅だった当時の名残り」があちこちに残されています。それを見て参りたいと思います。

まずは、この「改札外の広いコンコース」。
かつては、「唯一の鉄道駅」として多くの旅客で賑わったようで、多い時は「1日の乗降客数」は「2万人強」だったそうです(現在では「1000人強」)。

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こちらは「第1ターミナル」へ向かう「階段」と「エスカレーター」。
「エスカレーター」は「運転停止」になっています。

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その天井付近には「海外荷物便の広告」が「色を抜かれた状態」でそのまま残されていました。あえて撤去していないのか、「もの悲しい感」を受けます。

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改札付近には、この「連絡口」がありました。
平成3(1991)年に開業した「空港第2ビル」への連絡通路で、いまなおこの駅で下車しても「空港ターミナルへアクセス出来る」ということがわかります。ただ、500メートルほど歩かないといけないそうです。

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改札付近の様子です。有人駅ではありますが、ひっそりとしています。

さて、この「東成田駅」ですが、先ほど触れましたように「成田空港駅時代」には「唯一の空港連絡駅」として「規模の大きい駅」でした。
「新・成田空港駅」や「空港第2ビル駅」が開業し、そちらが「本線」になったため「当時の設備」は縮小されましたが、実はその設備がいまなお残されています。

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改札を入りました。
ホームへ向かう階段をくだる付近、この画像では左側に柵が設けられているのですが、その隙間からちょっと覗いてみますと…

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「非常灯」らしき照明以外は消され、薄暗い空間が広がっています。
当時の「コンコース」です。

よく見ますと、「ホームへの階段」や「入口」という文字が視認出来る案内板、銀色の「有人改札口」などが置かれています。

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こちらは「違うアングル」からのもの。

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「お手洗」という「案内板」や、壁に設置された「広告枠」も見られます。
こちらも、よく観察してみますと「当時の設備」がほとんどそのまま残されているように感じます。

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ホームへ降りて来ました。人の気配はありません。

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右側が「現在線のホーム」です。
中央の「コンクリートの支柱」がまだ新しい感じがしますが、左側のホームは薄暗く、使用されている形跡がありません。

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この反対側のホームは、かつて「特急スカイライナー号」が発着していたホームだそうです。現在では、「電車の留め置き」に使用されることがあるそうですが、乗客の乗降には使用されていません。

ただ、このホームにも先ほどの「コンコース」のように「当時の設備」が残されています。

「出口 EXIT」の看板、また当時「登場直後」だった「東武鉄道 SPACIA(スペーシア)号」の広告が「平成3年のホームの使用停止」からそのままの状態になっています。

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手前が「現ホーム」、奥が「旧ホーム」です。

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薄暗い照明の奥に、「なりたくうこう 成田空港」の「駅名板」が見えました。
ここが確かに「成田空港駅だった証左」です。

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ホームを移動して、さらに「旧ホーム」を観察してみますと、こちらにもさまざまなものが残されています。

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「当時の時刻表」。

このホームの使用が停止されたのが「平成3(1991)年」。
それから「24年」、「四半世紀近くの時間」を経てもなお残された「遺産」とも言えます。

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さて、現実の「東成田駅」に戻ります。

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こちらは「ホームに掲出された時刻表」ですが、日中は「普通列車のみの運転」で、運転間隔も「40分間隔」と、かつての「本線」の面影はなく、現在は「支線」となっていることが伺い知れます。

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待つこと15分ほど、ようやく列車が入って来ました。
「強者共が夢の後」と言えばあれですが、「かつての主要駅だった面影をそのままに残す、実に印象的な遺構」が残る「東成田駅」を後にします。

次回に続きます。
今日はこんなところです。