みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「旧東海道 30番目」の宿場街、「舞坂宿」を散策しています。

現在も、大切に保存されている「脇本陣」跡を見学させて頂いた後、「旧街道」を東へ進みますと、このような「のぼり」や「看板」が目に付きます。

「新居町駅」の「観光案内所」の方もおっしゃっていましたが、地元の「舞阪漁港」で水揚げされた「しらす」や「海苔」、「たたみ鰯」などがここの「名物」なのだそうです。

しばらく進むと、この「東海道舞坂宿一里塚」というスペースがありました。
「一里塚(いちりづか)」とは現在で言うところの「街道の起点からの距離標識」に相当するものでしょうか。
特に、「旧街道」では「起点からどれくらいの距離なのか」ということを「碑文」などで旅行者に知らせる、「大切な役割」があったようです。
「1里=約3.9km」と換算するそうで、ここの「一里塚」は「旧東海道の起点(江戸・日本橋)」からは「68里目」のものだそうです(「約270kmほど」、でしょうか)。
ちなみに、この「旧東海道」の「最後の一里塚」は「御陵(みささぎ、現在の京都市山科区御陵付近)」にあった「124里目」とのこと。
ここから「江戸」や「京」へは、まだまだ遠かったのですね。

さて、ここの「一里塚」跡に、興味深いものがありました。これです。

「文久2年 東海道舞坂宿 宿内軒別 書絵図面」という碑です
(ちなみに、「文久2(1862)年」は「幕末期」で既に日本は「開国」しており、日本に居留していたイギリス人が「大名行列に対して下馬しなかった」などとして薩摩藩士に殺傷された、歴史上有名な「生麦事件」が起こった年です)。
それはさておき、これはその際のこの「旧街道宿場街」の「家屋地図」ですね。

「地図」を見てみますと、「久五郎」「奥之助」「仁左エ門」「仁平」…などと、「名前」しか表記されていないものが殆どです。
この時代は、「苗字」はごく一部の限られた「特権階層」のみに名乗ることが許されたものでした(「苗字帯刀」という表現がなされますね)。

「一般庶民」が「苗字」を名乗ることが許されたのは、この「碑」の頃から10年後の「明治5(1872)年」、「平民苗字許可令」なる法律が施行されてからのことです。

さて、その先には、これは「石垣」の一部でしょうか。

当時の「監視所」に相当するものの一部だったようですね。
ここで「旧宿場街」の地域は「終点」とのこと。

再び、「国道1号」に出ました。「新町交差点」というところです。

この「舞坂宿」の「名物」として、こちらの「旧東海道松並木」があります。
全長「600m」にも及ぶ立派な「松林群」が保存されているということで、次回はそちらの様子をご紹介したいと思います。
今日はこんなところです。