「青春18きっぷ」で真冬の旅2015 その4 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは、前回からの続きです。
「旧・東海道」の「30番目」の宿場街、「舞坂(まいさか)宿」(静岡県浜松市西区)周辺を散策しているところです。
 
「宿場街」の中で、いまなお現存しており大切に保存されている「脇本陣跡」を見学させて頂いています。
 
イメージ 1
 
案内の女性の方が居られ、「ガイド」してくださいました。ありがとうございました。
 
まず、玄関を入るとこの「脇本陣」の「模型」がありました。
 
イメージ 2
 
こちらは「平面図」。「2階建て」で、「奥行きが長い」ことがわかります。
 
イメージ 3
 
「奥行」は「15間」(「1間=約1.8m」と換算)ということで、「約27m」。
対して「間口(玄関)」は「5間」ですが、換算すると「約9m」もあり、それでも十分立派ですね。
 
イメージ 4
 
画像がぶれておりすいません。
 
まず、案内されたのがこちらの「下湯殿(しもゆどの)」。
「簡素な板で間仕切りされた狭い部屋」になっており、床面は「板敷き」で「水はけ」しやすくなっている構造であるのがわかります。
 
現在で言う「風呂」とは異なり、「湯船に入り、浴場で身体を手ぬぐいなどで洗う」と言うことは出来ず、「桶に張られた湯」を「掛け湯」するだけだったそうです
(この時期であれば風邪をひきそうですが、当時の旅では「風呂に入れるだけでもマシ」だったそうです)。
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
こちらは「中庭」です。いかにも「和風の建造物」という設えで、ほっとしますね。
 
イメージ 7
 
続いては「炊事場」です。かまどが3つあります。
 
イメージ 8
 
「炊事場」の中からの様子。
 
イメージ 9
 
こちらは「井戸」ですね。
 
イメージ 10
 
「炊事場」だけの話ではないですが、この時期などは「暖房器具」などあるはずもなく、寒かったに違いなかったでしょうね(>_<)
 
イメージ 11
 
再び、「室内」に戻ります。上座に「掛け軸」がありました。
 
イメージ 12
 
「署名・捺印」があるので、「証明書」のようですが…
 
イメージ 13
 
「掛け軸」の内容(原文ママ)。「女手形」という文字が気になりますが…
 
イメージ 14
 
「一般庶民の江戸時代の旅」というのは「伊勢参り」など、特別なものを除けば現在に比べて大変制約の多いものだったようです。
 
いわゆる「士農工商」という、「江戸幕府=封建社会」を象徴する「身分制度」が厳然として存在していたことがその実例として挙げられますが、その一つとして「関所」が各地の街道筋に設けられ、この「舞坂宿」近辺では「新居(荒井)関」がありました。
 
「関所」では「旅行許可書」や「身分証明書」、「旅行者の出自」や「目的」などが事細かに調べられ、通過するだけでも大変なことだったようです
(ちなみに、「関所破り=関所を通過せずに、正式な通行許可を得ず先へ抜けがけすること)」が発覚した場合は、「獄門・磔(ごくもん・はりつけ)」などの「厳罰」が処されることも珍しくなかったようです)。
 
そんな中、「女性の一人旅」というのは「特に特殊なこと」で、この時代の「関所」の話になると、必ずと言って出て来る表現は「入鉄砲と出女(いりでっぽうとでおんな)」というものです。すなわち、
 「入鉄砲」…
  「地方から江戸に入って来る鉄砲(徳川幕府に対する『脅威』とみなされた)」
 「出女」…
  「江戸の『諸大名の屋敷』に実質『人質』として在住していた「大名の奥方」が身分を隠し、密かに国元へ帰ろうとすること」
 
もともとは「低い身分の者」を「本来在住している土地に縛りつける」ために「庶民の一人旅」は厳しく制限されていた訳ですが、その目的以外にもこの「入鉄砲と出女」を防ごうとする意義もあり、「関所」は良くも「江戸幕藩体制」では悪くも大きな役割を果たしていたようです。
 
ちなみに、こちらの「証明書」は、「天保年間(1830~1844年。『幕末に近い時期』ですね)」に発行されたもので、ここ「舞坂宿」から「関所の向こう側」へ「脇本陣に関わる所用をしに行く女性」が居り、その女性が「今切関(新居関)」を通過する目的でしたためられたものだそうです。
現在でははかり知れないほどの「制約」があった訳ですね…
 
次回に続きます。
今日はこんなところです。