みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「くずはモール」(大阪府枚方市)内の「SANZEN-HIROBA」で展示されていた、「歴代ヘッドマーク類」の展示を拝見しています。

今日はこの3枚をご紹介したいと思います。

まずはこちら。「貨」と、一文字だけ書かれたヘッドマークです。
京阪のみならず、私鉄各社では、昭和30~40年代頃まで(遅いところでは昭和50年代まで)多かれ少なかれ「貨物輸送」が行われていましたが、京阪の場合は、「路線メンテナンスのための建設資材、あるいは道床砂利など」に特化した「貨物輸送」が行われていました。
写真がないので申し訳ないのですが、当時、京阪には「電動貨車」というものが存在しており、たいがいは車庫で待機していたようですが、夜間などにはそれらの機材を搭載して、路線のメンテナンスを行っていたようです。
「京阪線系統」では昭和50年代~平成初期の頃まで、「大津線系統」では、平成9(1997)年10月の「京津線一部廃止」まで「122号車」という「電動貨車」が存在していました。
先日、「京阪開業時からの台車が現在も使用されている」という記事をアップしましたが、この「122号車」もご多分に漏れず、「開業当初」の「アメリカ・ブリル社」の台車を廃車まで使用していました。
この「開業当初」の台車は、「京津線一部廃止」に伴い、廃止となった「260形」の「261・262」号車のそれとともに、復元された路面電車が広大な敷地内で動態保存されているアメリカの「シーショア・トロリー博物館(Seashore Trolley Museum)」などに寄贈されたそうです。
「京阪開業当初からの台車の歴史」についてはこちらもご参照ください↓
当ブログ
「SANZEN-HIROBAを訪ねて その14」(2014年5月30日)

続いてはこちら。こちらも、「試」と、一文字だけ書かれたヘッドマークです。
塗料の上塗りがなされていて、たいへん味がありますね。
説明文にあるように、「車両の正面に行先表示器が設置されていない当時に使用」
とあります。
京阪で最初に「正面の行先表示器」が設置された車両は「5000系」で、昭和51年に登場した増備車からで、それまでは、「特急」を除き、車両の正面には「ヘッドマーク」(京阪では「本標」と言いますが)が必ず掲出されていました。
そのバリエーションの多様さは見ているだけでも楽しいものでしたが、「京阪線系統」の「本標」が消滅したのは「2400系」の車体改修工事が竣工した、平成2(1990)年でした。

続いてはこちら。
「三条 急 淀屋橋」の「ヘッドマーク」(本標)です。
この「ヘッドマーク」は、わたしが大変印象に残っているものです。
京阪では、「急行」の「ヘッドマーク」の表記は「急」と略しており、「赤地・白色縁」の
ものは「京阪間直通」の列車に使用されていました。

一方、「途中駅折り返し」のものは「白地・赤色縁」となっており、遠目からでも判別が可能なものになっていました。

ちなみに、「臨時急行」のものは、「京阪間直通」「途中駅折り返し」ともに「白地」と
なっていました。
ただし、使用頻度はあまり多くなかったようでしたが、この「樟葉 臨急 淀屋橋」の「ヘッドマーク」は、平成2(1990)年に、沿線の「鶴見緑地」で開催された「国際花と
緑の博覧会(花の万博、EXPO'90)」の利用客対策で、期間中、午後に数本運転されていた際に使用されていたものです。

ところで、この「ヘッドマーク」ですが、「印刷板」のものが主流になる前には「手書き」
のものが使用されていました。
これは「SANZEN-HIROBA」で展示されていた「ヘッドマーク」ですが…

こちらも同じ「三条 急 淀屋橋」の「ヘッドマーク」です。
同じ種類でも先ほどの「ヘッドマーク」と見比べてみると、小さいながらも差異が見受けられます。どこが違うかおわかりでしょうか?
わたしなりに捉えた正解です。
①「淀屋橋」の字体が、前者では「横広」になっている
②「三条」の「条」の字の上部分が前者では「一部の画の線」が飛びぬけている
③「三条」の「条」の字の「木」の「はらい」の初めの部分が前者では離れている
④「三条」の「条」の字の「木」の「とめ」が跳ねている
⑤中央の「急」の字が後者より大きい
⑥「急」の字の下部の「心」の1画目の「点」が、後者では「斜め角度が45度位になっている」のに対し、前者では「斜め角度が15度位になっている」
といったところでしょうか。
こまかいところですが、こういった差異を見つけるのは結構興味深いもので、「アナログ的」な愉しみでもあったのですが、現在ではそういったものもなくなってしまい、便利な代わりに「画一的」になったなあとも思います。
次回に続きます。
今日はこんなところです。