SANZEN-HIROBAを訪ねて その26 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「くずはモール」(大阪府枚方市)内の「SANZEN-HIROBA」で展示されていた、「歴代
ヘッドマーク」を拝見しているところです。
 
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前回から、この「1900系 50周年」のヘッドマークについて取り上げていますが、この
ヘッドマークを装着した編成には、「1900系」がこれまで活躍して来た姿が「ポスター
ギャラリー」となって展示されていました。
その様子を前回に引き続き、ご覧頂きたいと思います。
 
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こちらは、最晩年の「1900系」の様子ですね。
宇治線、交野線(本線直通の「おりひめ」「ひこぼし」にも定期運用され、最高時速110km/hの高速運転をこなしていたことは「特筆に値する」ことであると思います)、本線の区間急行、普通などに充当されていました。
 
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ここからは「特急車時代」の様子です。
 
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「車両の変化」もともかくですが、それぞれの写真にある解説を見ても「沿線の様子の大きな変化」というものに「時代の流れ」を感じます。
 
「1900系」は、この2年後、平成20(2008)年10月18日、「中之島線開業」の前日に、
定期運用を終え、同年12月の「さよなら運転」を最後に勇退しました。
昭和38(1963)年から製造された「新造車グループ」では「車齢45年」、昭和31(1956)年から製造された「1810系からの編入車グループ」では、何と「車齢52年」という
現代では異例の「長寿車両」でした。
 
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続いてはこちら、「5000系 40周年」の記念ヘッドマークです。
掲出期間は「平成22(2010)年12月」となっています。
 
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「5000系」は、高度経済成長のさ中である昭和45(1970)年から登場した車両です。
昭和30年代からの京阪沿線の急激な開発と、それに伴う利用客の増大に対応するために製造されました。八幡市にて。
 
「5000系」の特徴は、車両側面にずらっと並ぶ「5扉」です。
「昼間・閑散時」には「第2・4扉」を閉鎖し、天井から降りる座席を使用できるように、「平日の朝ラッシュ時」には「第2・4扉」を開放し、その部分の座席を天井に収納し、すべてのドアを使用出来るようになっています。
 
この「5000」系が登場した当時、京阪では増大する利用客の対応に追われていましたが、諸般の事情で車両編成は「最大7両」までと制限されており、また、現在「天満橋~寝屋川信号所」間となっている「高架複々線」も当時は「京橋~守口(現在の守口市)」間までと、線路容量も限界に達していました。
その中、最も利用客の乗降が激しい「区間急行」や「普通」の遅延が日常化しており
その抜本的な対策として投入されたのが、本形式です。
 
登場後、その「区間急行」「普通」系列にさっそく充当され、「5扉」の特性を活かして
乗客のスムーズな乗降に大きな役割を果たしましたが、「守口市~寝屋川信号所間の高架複々線の供用開始」(昭和55年3月)、「7両以上の増結が可能になる架線電圧の昇圧」(昭和58年12月)の後も、朝ラッシュ時には本系列の専用運用もあり、
登場から40年以上経過した現在も、「通勤輸送」に大きな役割を果たしています。
 
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朝ラッシュ時に「フル運用」される「5000系」です。森小路にて。
 
手前の上り(京都方面)のものは「回送」、右側の下り(大阪方面)のものは「普通」と
して充当されている写真ですが、先述の通り、「ラッシュの最混雑時」に集中して投入されているため、この系列が検査などで投入された場合は他の「3扉」の系列が
代走するとこのとですが、やはり「5000系」の場合とは異なり、多少、乗降に時間が
かかるようです。
 
次回に続きます。
今日はこんなところです。