みなさんこんにちは。
もうすっかり暑い時候ですね<(`^´)>
時間が過ぎるのは早いもので、もう5月も終わりです。
また、職場では「7月の公休希望」を募っていました。もうすぐ夏なんですね。
さて、前回からの続きです。
「くずはモール」(大阪府枚方市)内の「SANZEN-HIROBA」で、今月半ばまで展示されていた、貴重な「京阪電車所蔵」の製造プレート類を拝見しています。
今日はこちらから。

昭和30年代から、大阪市内のアクセスに便利な反面、「鬼門」として開発が遅れていた京阪沿線の急激な開発と人口増加で、急増する乗客をスムーズに輸送する
ということが戦後京阪の大きな課題となって来ました。
看板列車の「京阪特急」では、昭和26(1951)年に1700形、昭和28(1953)年に1800形、昭和31(1956)年に1810形、そして「淀屋橋延伸」に合わせて昭和38(1963)年に1900系と、次々に新型車両が製造されて行ったのに対して、最も混雑が激しい特急以下の種別には、依然として戦前に製造された車両が中心に運行されていました。
ただし、これらの車両自体が「2枚扉」であるものが多く、ラッシュ時輸送の大きな支障となっていたため、先日の記事でご紹介した、昭和34(1954)年に「2000系(スーパーカー)」を新造するとともに、これらの旧型車の運転機器を流用し、車体を新造した車両群が昭和30年代に入り、続々と製造されて行くこととなりました。

前回に引き続き、イラストを使わせて頂いています。ありがとうございます。
こちらについては詳しく後述します。
「600系(2代目)」は、日本で初めて「2人掛けシート=通称ロマンス・シート」を備え、昭和2(1927)年に登場した「旧1550型」と、翌昭和3(1928)年に登場した「旧1580型」、ならびに同年に登場した「貴賓車・16号車」の車体機器を流用し、車体を台枠から新造して更新した、通勤ラッシュにも対応出来る「3枚扉車」として登場しました。

「600系(2代目)」車両の側面図です。
先日にも少し触れましたが、「窓割り(窓配置)」が「扉―窓4つ―扉」となっています。
京阪電車の3扉車では、「扉―窓3つ―扉」というのが一般的なので、この例は、昭和42(1967)年~43(1968)年にかけて、流線型「1000形(2代目)」をやはり同じ方法で「車両機器を流用・車体を新造」して登場した「700系(2代目)」にしか見られない
タイプです。
ちなみに、この車両側面図の一番下、「600系」の中の一番台、「630形」は、他の「600形」と異なり、車体に違いがあるのですが、おわかりでしょうか?
「客用扉」の両側に、「戸袋窓(とぶくろまど)=扉が開いた際に収納されるスペース(戸袋)の部分に設置されている窓」があるところが、他の「600系」とは異なる部分です。

実は、この「630形」は、京阪の通勤型車両の近代化のため、試験的要素を多く導入したプロトタイプとして、京阪初の「通勤用3扉車」として昭和32(1957)年に登場した「1650型」を編入したものです。
ちなみに、「京阪通勤車」の「緑の濃淡」塗装は、この「1650型」から採用され、以降
半世紀にわたり、利用者から親しまれるものとなりました。
逸話ですが、「なぜ緑の濃淡なのか?」と言うと、「当時の朝のラッシュがあまりにもひどく、通勤・通学利用者に『少しでも朝にさわやかな気分を感じてほしいから』」という理由だったそうです(諸説あるそうですが)。
いずれも、昭和58(1983)年12月の「京阪線架線電圧の昇圧」前日まで運用されていました。
この「600系(2代目)」の登場後、昭和39(1964)年には「2200系」、昭和44(1969)年には「2400系」、昭和45(1970)年には「5扉車・5000系」が、昭和52(1977)年には「1000系(3代目)」が、通勤用車両として次々と登場しました。
ちなみに、これ以降の通勤車両としては昭和58(1983)年に、昇圧に対応出来ないこれらの「600形(2代目)」などを置き換えるために登場した「6000系」まで、少し間が空くこととなります。

続いてはこちら。
「200型車両」の製造銘板です(「大阪鉄工所」は現在の「日立造船」に当たります)。


「200型」は、明治の開業以来、「単行(1両)・全駅停車」のみの運転を行っていた
京阪が、「速達型列車」として「急行」の運転を行う際に、大正4(1915)年から登場
した車両です。
前面には2種類あり、「3枚窓」の他には「5枚窓」のものも存在していました。
殊に、「5枚窓」のタイプは、「タマゴ型運転台」などと言われるもので、この当時の他の私鉄でも登場し、昭和30年代まで見られたタイプです
(有名なのは信貴生駒電鉄→近鉄など)。
クラシックなデザインだったのですね。

続いてはこちら。
先ほどの「200型」に続いて登場した、京阪初の「連結用車両・300型」の車両銘板です(「梅鉢工場」は、現在の「帝國車両工業」に当たります)。
大正13(1924)年10月、天満橋~守口(現・守口市)間で「2両連結運転」が開始されるのに合わせて登場した車両です。

明治の開業当初から、沿線に「道路との併用軌道」を多数抱えていた「京阪線」も
「京阪間」の「省線(現在のJR京都線)」との競合もあり、また、沿線の開発も徐々に進んで来たことから、「連結運転の開始」は必然的なものだったようです。
それでも、他の在阪私鉄と比較すると、比較的遅い時期の実現でした。
京阪も、沿線の「森小路」「寝屋川」「枚方」などに住宅地を開発し、沿線の開発を
企図しましたが、この時期の京阪は、どちらかというと本業以外の事業の「多角化」
を積極的に進めていて(→テリトリーの拡大を狙ったもの、とも思われますが)、「新京阪鉄道(現在の阪急京都線)の敷設」、「和歌山電気軌道=和歌山市内の路面電車(後に南海の傘下、昭和46年に全廃)」、先日、記事をアップしましたが「阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)の経営資本参加」など、さまざまな方面に触手を伸ばして
いました。
詳しくはコチラもご参照ください↓
当ブログ記事
「仁義なき戦い」~昭和初期のある抗争より~(2014年5月15日アップ)
これらのことについては、機会がありましたら別の項でご紹介したいと思います。

最後にこちらをご紹介したいと思います。
今回の記事をご紹介するにあたり、イラストを拝借させて頂いている記念本です。
大変助かっております。ありがとうございます。
「細密イラストで見る 京阪電車車両の100年」(2010年発行、ネコパブリッシング刊)
です。
平成20(2010)年現在の京阪全車両の詳細なイラストと解説付きで、見ているだけでも
車両の由来がわかり、楽しめる一冊ですので、おすすめしたいと思います。
今日はこんなところです。