みなさんこんばんは。
京阪電鉄中之島駅(大阪市北区)にやって来ています。
この駅で展示中の、京阪電鉄開業100周年記念の移動式鉄道博物館、「京阪ミュージアムトレイン」の様子をお届けしています。
前回のレポは入口の手前で終わったので、今回はさっそく見どころからです(笑)

入口(画像右側)を入ると、運転台との間に大きな幟があります。
これは「戦前の京阪を代表する3種類の車両」をデフォルメしたものだそうです。

「1号車」の展示テーマは、「京阪電鉄100年のあゆみ」です。

それぞれの時代のパネル展示と、部品などの展示が主です。
お粗末ですが、順を追って解説していきたいと思います。

昔から「京」と「大阪」という大都市を行き来する人々はひきもきらなかったと言います。この両都市を結ぶ鉄道の開通までは、琵琶湖からの支流を経て大阪湾へと注ぐ「淀川(よどがわ)」の「屋形船」での往来が主でしたが、淀川右岸(北側)に省線(現在のJR京都線、東海道本線)が開業し、淀川左岸(南側)でも鉄道の開業が期待されていました。
淀川左岸には、「東海道五十三次」の終点である「京都・三条大橋」から大阪まで「京街道」が整備され、江戸から京都までの宿場と、京都から大阪までの宿場を合計して「東海道五十七次」とも言われていたようで、沿線には「淀」「枚方(ひらかた)」「守口(もりぐち)」の3つの宿場町が設けられ、明治に入ってからも街道筋は賑わいを見せていたと言います。
そして、この「京街道」に沿って、鉄道会社の建設の構想が起こります。
それが「畿内電気鉄道」(のちの「京阪電気鉄道」)というわけです
(上の「特許状」の画像にも「畿内電気鉄道」の記載が見られますね)。

「路面電車」として認可を得た「畿内電気鉄道」は「京阪電気鉄道」と改称し、4年間で大阪から京都までの路線を建設しました。
ちなみに、この時代、「電気鉄道」とは「路面電車」という認識だったようで、既に開業していた省線(現在のJR京都線、東海道本線)の運営には直接影響しないだろう、ということで、並行しての路線だったのにも関わらず認可が下りたようです。
そして、さかのぼることちょうど100年前の1910(明治43)年4月15日、「京街道」に沿った「大阪天満橋~京都五条大橋間」で京阪電車は営業を開始しました。

当時の車両は、「路面電車」として特許を受けていたことと、大阪側の終着駅「天満橋」から大阪市電に乗り入れる予定であったこともあり、「オープンデッキ」と言われる「ふきざらし」の車両だったそうです。
草創期に使用されていた「ハンドブレーキ」と「レール」が展示されていました
(ちなみに、左上に見える模型が開業当時に使用されていた車両だそうです)。

開業から20年ほど経過し、電鉄の運営も軌道に乗り始め、京阪は事業拡大を推し進めます。

京都と大津を結ぶ「京津(けいしん)電気軌道(現在の京阪京津線・京都市地下鉄東西線)」、琵琶湖周辺を走る「琵琶湖鉄道汽船(現在の京阪石山坂本線)」といった会社を合併し、京都から琵琶湖への進出を図ります。
この時期に登場したのが、先日ご紹介した、「大阪から琵琶湖への直通運転」を可能にした「びわこ」号です。
参考 京阪電鉄開業100周年 「ファミリーレールフェア2010」訪問記 その3

また、「京阪本線」が「京街道沿い」の街々を縫うようにして走っていたのでスピードが出せず(これは現在でも同じですが)、危機感を抱いた京阪は、省線(現在のJR京都線、東海道本線)が走る淀川右岸(北側)に「高速運転が出来る新路線」の建設を企図します。
この頃になると、「電気鉄道」は「高速運転が出来るもの」というとらえ方がなされ、省線のライバルとなる「淀川右岸」での新路線の建設は困難を極めますが、昭和天皇の御大典に合わせて1928(昭和3)年にようやく新路線「新京阪鉄道(現在の阪急京都線)」が開業しました。
上の画像は、昭和初期の京阪線の路線案内図ですが、「淀川」の左岸・右岸ともに「京阪の路線」を示す赤い路線が載っています(現在、京阪電車は下部の「京阪本線」とその支線のみ)。
時代は太平洋戦争に突入し、戦時中の政府の方針で、1943(昭和18)年に、京阪は阪神急行電鉄(現在の阪急)と強制的に合併させられ、社名も「京阪神急行電鉄」と改称されました。

太平洋戦争が終結し、強制合併の意義を失った「京阪神急行電鉄」は、1949(昭和24)年12月に、もとの「京阪」と「阪神急行電鉄」に分離されることになりました。
ところが、「阪神急行電鉄」は、戦後直後の混乱に乗じ、反対を無理に押し切って戦前に京阪が建設した「新京阪鉄道」を自社の路線としてしまいます。
「京阪電車」に残ったのは、カーブが多く高速運転が難しい「京阪本線」…
そこで、所要時間のハンデを覆すさまざまな工夫で、京阪間の乗客を獲得する作戦に出ました。
余談ですが、「関西大手五私鉄(京阪・近鉄・南海・阪神・阪急)」のうち、「プロ野球球団を持ったことのない」のは京阪だけなのですが、その理由として、「新京阪」を阪急に奪取されたので、「余興」よりも「本業に専念する」という会社の方針があったからだそうです。

まずはこちら、「テレビカー」なる車両を連結した新型の特急専用車両を建造します。ちなみに、導入はテレビ放送が開始された3年後の1954(昭和29)年だったそうで、街頭テレビしかなかった時代、大変な好評を博したと言います。
この「テレビカー」は、現在に至るまで「京阪特急」のシンボルとなっています。

「テレビカー」で乗客の獲得に成功した京阪。
昭和30年代後半に入ると、沿線の開発が相当なペースで進み、全国的に見ても異常なほどのラッシュに見舞われます。
というのも、「京阪」が大阪から京都に向かっている方向を見るとこれが「北西」の方角で、「鬼がやって来る」と言われ忌み嫌われていた「鬼門」だったので、都心に近い割には開発がさほど進んでいませんでした。
高度経済成長期にさしかかると、「都心に近い・開発途上」という京阪沿線で人口が爆発的に急増したため、「路線の高架化」や「複線から複々線」への工事などの闘いだったと言います。

1980年代から90年代に入り、急増する輸送への対応がひと段落したところで、「沿線での事業拡大」が進められました。

京都の奥座敷、「鞍馬」「貴船」といった観光地を走る「叡山(えいざん)電車」の始発駅、「出町柳(でまちやなぎ)」への延長線、「鴨東(おうとう)線」が1989(平成元)年10月に開業、大阪と洛北の交通アクセスが格段に改善され、大々的にキャンペーンが行われました(私が小学生高学年の頃でした)。
また、沿線の「鶴見緑地(大阪市鶴見区・守口市)」では1990(平成2)年に「国際花と緑の博覧会(花の万博)」が開催されるなど、バブル絶頂期も重なり、とても華々しいものでした。

さて、2008(平成20)年10月には、大阪・中之島への交通アクセス向上のため、「中之島線」が開業しました。


「水の都大阪」などと言われますが、ここ「中之島」周辺では再開発が進み、「ウオーターフロント」としての意義が高まっています。元々交通の便が悪かった「中之島」という地域に鉄道を敷設することで、「これからの沿線の開発に一役買う」、といったところでしょうか。
といった感じで、以上が1号車でした。
次回は2号車へと移ります。
今日はこんなところです。