ヴィクトール・E・フランクルさんの「夜と霧」を読みました。冒頭「これは事実の報告ではない。体験記だ」とあります。客観的に見たドキュメントではなく、一人の心理学者が体験した、たった一人の例を伝えたいのだと思いました。
何百万人ものユダヤ人が、何百万通りに味わった中の一人の体験記だというのです。そこには、ナチスに対する怒りは見受けられません。それこそ、ナチスという言葉自体もほとんど出てきません。生身の人間が内側から見た強制収容所です。
ただ、痩せても枯れても心理学者なので、体験記の多くを占めるのは心理描写です。実は、その分析こそがヴィクトールさんを生き延びさせたのだと思います。スピノザ曰く「苦悩は明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」
生きたいという気持ちを失えば、すぐに死へ繋がる。だから、くじけそうな仲間には、自由になった自分の夢を描かせる。その夢を目的にすれば、この苦しみにも意味がある。いかにも、アドラーの弟子らしい目的論です。
知っているのはアウシュビッツくらいですが、強制収容所はドイツ、ポーランド、オーストラリアなどに2万か所もありました。移送命令があるたびに、ガス室へ送られる偽装かと怯えます。移送されれば、そこにガス室があるかが気になります。
強制収容所は死と隣り合わせの毎日です。常に死の選別を受けます。ある時はナチス親衛隊の指が左右に示すだけの選別、ある時は人数を減らすだけの選別。多くは、ヴィクトールさんの番号119104番の運の良さが左右するだけ。
そこでは「生きることに何の意味があるか」と問いたくなりますが、もちろん答えは出ません。ヴィクトールさんは「生きているんだから何をするか」と転換します。生の意味を問うのではなく、生からの問いに答えるというコペルニクス的転回です。
心理学者の体験記は、苦しみを分析することに満ちています。リルケの「苦しみ尽くす」という言葉まで引用するとは、僕らのような凡人から見れば屁理屈です。ヴィクトールさんを92歳まで生き延びさせたのは、なんと屁理屈そのもの。