引きこもりには、生け花もうれしい | kuwanakenのブログ

kuwanakenのブログ

プラス思考は、好きじゃない。
前を向いたり、しゃがんだり、
振り返ったり、無理をせず、
幸せレンガを、積んでいこう。

 玄関の狭い上り框やトイレの隅に、美しい妻が花を生けてくれました。職場でもらってきたとのこと。百合の花がきれいに咲いています。生け花にはあまり興味がありませんでしたが、一杯の生け花があるだけで気分が良くなります。

 

 普段から、「草花は自然に生えている方が美しい」などと斜に構えてはいます。ところが、引きこもりの身が長く続くと、玄関やトイレに生けてある花が愛おしくも思えてくるものです。「手に取るな やはり野に置け 蓮華草 されどトイレや 玄関框」

 

 蕎麦屋を開業した頃、母が毎週のようにやってきては、店の中に花を生けてくれました。おもしろいことに、そばの丼やざるそばの器が、母の手に掛かると見事な花器に変わります。お客さんにも楽しんでもらえたようです。

 

 花はいろんなものにたとえられています。花を咲かせるといえば、事業の成功を。花を持たせるといえば、勝利や栄冠を。表面だけの美しさを表しているのではありません。どれも、中身の伴った華やかさのたとえです。

 

 自然の花は咲いた後に実が成ります。切り花に実がなることはあるんでしょうか。そもそも、虫が飛んでこないので受粉しないような。受粉したとしても、花が散ったところで捨てられるような。実がなる前に枯れるような。

 

 世阿弥さんは「秘すれば花」と説きました。この裏を返せば「秘密がバレれば花ではなくなる」とも解釈できます。そう考えると、元々そこには中身がないようにも取れます。中身がないものを、あるように見せるのが「秘すれば花」とも。

 

 僕は専業主夫を名乗って、堂々と無職を貫いています。隠者気取りでブログや童話を書いたり、俳句や短歌に勤しんでいます。何かものになるかといえば、それはありません。どう気取ってみても、中身は空っぽというのが現状です。

 

 母が華道教室を開いている頃、兄は手解きを受け免状をもらいました。僕も母が生きている間に習っておけば良かったと、今さら悔やんでも始まらず。せいぜい、徒花を咲かせるくらいが関の山。