くさまです。

 

4月30日をもって、3期12年務めた横浜市会議員としての任期を全うしました。

 

前回のブログでは、横浜市会で行った議員提案条例とマニフェスト大賞の話をさせていただきましたが、今日は都筑区選出の市会議員として何をしたか、自身の振り返りと検証含めてお話しさせていただきます。

 

振り返ってみると、都筑区選出議員として僕ができた都筑区への貢献は大きく、

 

①センター南駅ナカへのパスポートセンターの誘致(実現)

②区民文化センターとボッシュ本社の建設(建設中)

③グリーンラインの6両化(実現中)

④ブルーラインの新百合丘までの延伸(決定)

 

以上の4つは、区長でもなく、他の議員の皆さんでもなく、僕が取り組まなければ進まなかった、もしくは10年程度遅れていた(=コロナでできなかった)、結果が違っていたものです。

 

今日はパスポートセンターと区民文化センターについてお話しします。

 

2019年10月にセンター南駅ナカにオープン

 

 

センター南駅ナカのパスポートセンターについては、横浜市民の皆さんは永年、山下公園前の産業貿易センターにある県が運営するパスポートセンターで、申請、受け取りをしなければならず、例えば都筑区民は年間約1万人が往復2時間以上かけて、パスポートの手続きをしていました。

 

2017年の「横浜市神奈川県調整会議」でパスポート発給事務を県から市に移行することが確認され、横浜市北部に新たなに横浜市がパスポートセンターを設置することになりましたが、内々に検討が進められていたのはセンター南ではない地域でした。

 

この話が出た時から、センター南北どちらかの駅構内がいいと思ったのですが、当時僕は2回当選、35歳のまだまだペーペーでしたので、自分の政治力ではどうにもなりませんが、ドンならどうにかなるだろうと先輩議員に頼み込み、「センター南だろう」という話をしていただきました。

 

結果、翌年にセンター南で開設することが発表され、2019年10月にオープンしました。

 

パスポートセンター設置に伴い、センター南駅の1回部分は大規模改修が行われ、カフェも入り、王将も入り、地域の皆さんがピアノまで置いていただく相乗効果がもたらされました。

 

センター南には多くの川崎市民の皆さんもお買い物に来るので、川崎市北部の皆さんもセンター南で取得できるようになれば、より便利になるはずです。

 

次に、都筑区民文化センターの建設ですが、これは10年かかりました。

 

先代の故・大久保純男議長からも、「この空き地をどうにかするのがくさま君の仕事だよ」と託されたのが2011年。

 

港北ニュータウンの中で最後まで残っていたのが、この文化施設用地問題でした。

 

今思い出すとよくできたなと思うのですが、この土地は横浜市財政局が持っていて、文化施設用地ながら、当時の文化観光局も所管になっていなく、当時の都筑区は、待機児童ゼロを目指す中で、保育所を作るため土地を処分しようと計画していました。

 

僕が当選したときの区長や次の区長さんは、文化センターをつくることは全く考えていませんでした

 

まだ当選1回(議会最年少)だった僕にできたことは、ひたすら議会や自民党の中でこの問題を訴え続けることでした。

 

議会では、身内の自民党からも「しつこい!」とヤジが飛ぶほど、土地の所管である財政局(早く売りたい)、所管でなかったのに所管になった文化観光局(なかなか動かない)、そして当時の林市長に訴え続けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初に訴え始めてから6年後の2017年に区民文化センターの建設が決まった時、当時の文化観光局の幹部から「これは草間さんの粘り勝ちだね」と言われました。

 

あの時僕が動かなければ、恐らくこの土地は歴代区長や局の売却圧力により、違う形で売却されていたと思います。

 

ボッシュを誘致したのは僕ではありませんが、ボッシュに土地を売却したのに、なかなか建設が始まらないというタイミングがありました。コロナ禍でした。

 

今でもよく覚えていますが、あの時も、この話が消えそうなくらいの危機でした。

 

そして、区長や局なども当時引いていた中で、僕が中に入り、ボッシュに最後まで頑張ってもらいました。

 

役所の傾向として、いいときは動くし手柄は全部持っていきますが、最初のめんどくさいときや苦しいときはなかなか動きません。

 

これは人のせいではなく、役所の体質です。

 

そこを突破していくのが、僕らの仕事だとも思います。

 

そんな中で今の区政推進課長さんも含め、歴代の課長さんや文化の皆さんには様々な努力をいただきました。

 

こんだけやって利権がないのが僕の誇りでもあります

 

ニュータウンの文化施設を夢見て亡くなっていった少なくない先人の皆さんにも、僕が死んだ時には、あの世で少し褒めてもらえるかなと思っています。