修験道と密教(7) | Just One of Those Things

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修験道と密教 』から『修験道と密教(2) 』より。


そして、『修験道と密教(3) 』、『修験道と密教(4) 』…とみてきました『修験道と密教(5) 』。


さて、『修験道と密教(6) 』をもう少し掘り下げてみていきましょう。



修験道が修業のときに行っている「山伏問答」の中に、修験道の本尊についての問答があります。


そこには修験道の真の本尊は「無相の大菩提心本覚如来」であると説かれています。


即ち、すがたかたちのない(無相)、生きとし生けるものに本来具わっている覚り(本覚)そのものの如来、それこそが修験道の真の本尊だとされているのです。


また、この本覚如来を、「自仏」としてとらえるのです。これは、自分の外側にあるものとしてとらえられた仏(他仏)ではなく、自身がそのまま仏であるということを表すものです。


そして「自仏としての本覚如来」ととらえるところが、大日如来であり、また仏陀・釈尊の覚りそのものなのです。



さて、ここでいう大日如来は、一般的に考えられているような、諸仏のうちの一尊としての大日如来ではありません。諸仏すべての働きの総称であり、その本源の覚りとしての大日如来です。


大日という尊名は、『大日経疏』の中に、次のように説明されています。「世間の日(太陽)は昼を照らし夜を照らさず、ものの表面を照らしてその裏側を照らさないが、大日は常に昼夜を隔てず、すべての表裏を越えて照らすゆえに、大を付して大日という」。


このように、森羅万象に遍満してはたらきわたる仏のおいのち、本源の覚りこそが、修験道の大日如来の大日如来なのです。そそてそれこそが、釈尊の覚りそのものだと考えます。


修験道のこのような大日如来の理解は、先に述べた無相の教え、すなわち本覚の教えに立脚したものに他なりません。



修験道のこれに対し、密教では有相で即身成仏をとります。