修験道(7) | Just One of Those Things

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修験道 』 から『修験道(2) 』より。そして、『修験道(3) 』、『修験道(4) 』、『修験道(5) 』、『修験道(6) 』…と見てまいりました。



このように、ブッダ、或いは、釈尊の覚りと修験道とは、インド・日本という区別(国境や次元)を超えて、本源の境界において(根本と成る原理が)結びついており、「一味」(本質的に同じもの)となっています。


したがって、修験道は、ブッダ・釈尊を「本師」ないし「教主」として崇め、帰依し、その覚りに到達されるまでに行われた修業を模範して、峰中において十界修業を行います。



伝承しおいては、修験道の根本道場である大峰山は釈尊が常に鎮座していたと考えられていた霊鷲山の東南の角が、日本に飛来し、鎮まった御山であるとされます。


また、霊鷲山が飛来してきたとき、日本国中三千余座の神祇(神々)が、その飛来を喜び、お迎えしたそうなのだといいます。


そして、大峰山において、役行者(えんのぎょうじゃ)によって苦行の中で祈り顕された(感得された)修験道の御本尊・金剛蔵王権現は、釈尊の憤怒身に他ならないと考えられています。


このように、修験道は、覚りの境界や行相(修行のありよう)、神々の守護、本尊など、どれをとってもブッダ・釈尊を師表としているのです。