修験道(4) | Just One of Those Things

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Let's call the whole thing off

修験道 』 から『修験道(2) 』より。そして、『修験道(3) 』と見てまいりました。


この「古来より」というところの境界です。即ち、修験者が修行によって体得する覚りの境界というものは、中村元氏の言葉で用いれば、心身の「清浄の行」を完成させた「解脱」の状態を求める、或いは、心身を浄化する中で覚り、解脱へ至った状態を得る間を境界といい、解脱ともいわれるもので、この物理は古来からありました。


その境界とは、「何かに成る」というものではなく、心そのままの働きが「すでに完成している状態(覚りを得ている)」とでもいいましょうか。


心の中に湧き起こる様々な煩悩や、それによって生じる苦しみなどは、「清浄の行(自己の心身の清浄化」を行うその働きとして自動的に「完成」する力を持っている・・・というようなものです。


それは、伝統的には、「本覚(ほんがく)」(生きとし生けるものに本来的に備わっている覚り)という言葉で表されています。



あるいは、修験道においては、この境界は「即身即身」(そのままそのまま)ともいわれています。


修験道に伝承される『秘記』はこれを「入峰灌頂(にゅうぶかんじょう)の日、すでに一印大日の覚体なり」と説いています。


すなわち、修験道は、さまざまな外来の宗教(仏教や道教、密教など)を吸収し、また、その概念や用語などを咀嚼して、自己の境界を示し、伝えてきました。


そして、その現成の場が、山岳、峰中だったのです。