散歩中に見かけたみかんの木

 

 

10年ほど前のある初夏の明け方、父は還らぬ旅に出た。

 

父は要介護5級でほとんど寝たきりだった。

 

そのうえ父は、前立腺の関係から尿意を察知したりコントロールしたりすることが出来ず、大小いずれもオムツに頼っていた。

 

それでも、出来る限り家で介護をしてあげたいという母の意向も尊重して、肺に水が溜って呼吸が苦しくならない限りは家で介護していた。

 

といっても、実際の介護の主力は、自分自身要支援の認定を受けていた高齢の母だった。

 

いわゆる老老介護である。

 

 

このオムツの取替えが大変だった。

 

特に父は、医師の指示で所定量の水分を必ず摂取するように決められていたため、昼夜を問わず大量のおしっこをしていた。

 

そのため、夜中に2回はオムツの交換をしなければならなかった。

 

私たちは、あらゆる紙オムツを比較検討し、吸収力や形状をもとに複数組み合わせるなど工夫を重ね、夜中のオムツ交換を少しでも減らせないか試行錯誤を繰り返した。

 

しかしどんなに工夫しても、オムツから尿が漏れてシーツを水浸しにし、明け方父が寒がるという事態を防ぐことが出来なかった。

 

このような中、父は、肺に水が溜って入院を余儀無くされる頻度がだんだん増していった。

 

最後の入院はある年の正月明けからであった。

 

この入院で、父は肺の水も抜け、春ころには自宅に帰ることができるまでに回復した。

 

しかし母もかなり疲弊しており、「このままではご両親が共倒れになりますよ」と医師からも忠告された。

 

家族で何回も話し合った末、父には療養型病院に転院してもらうことにした。

 

しかし父は、家に帰れると思っていたようだ。

 

「いつ退院するかのう。」

 

父はそんな風に言って、退院して家に帰れる日を子供のように心待ちにしていた。

 

そんな父に転院を告げるのは酷であったが、母のことも考えてあげなければならなかった。

 

ある日、入院病棟にあるカンファレンスルームをお借りして、「このままでは母さんも倒れてしまうので、父さん申し訳ないけれど家に帰らずに転院して欲しいんだ。」と告げた。

 

父はじっと目を瞑って黙って聞いていた。

 

そして暫く黙ってからひとことだけ言った。

 

「わかった。」

 

父はそれ以上何も言わなかった。

 

この件に関する父の発言は、後にも先にもこの一言だけであった。

 

それ以外は本当に何も言わなかった。

 

そして父は何事も無かったかのように「今年の桜はいつごろ咲くかのう。」などと言って自分から話題を変えた。

 

いま考えても武士のように潔かった。

 

このようにして療養型病院に転院した父は、転院して数か月後、恐らく誤嚥が原因ではないかと思われるが、肺炎を起こして還らぬ人となった。

 

 

私は今でも、あのとき父を転院させた判断・選択は間違っていたのではないかと、くよくよ振り返っている。

 

 父も本当は家に帰りたかったんだろうと思う。

 

父の遺品の中にボロボロになった早稲田の角帽があった。

 

父のことを考えると、未だに仕事中でも涙が出てきてしまうことがある。

 

※父のこと