北米合衆國水師提督伯理上陸紀念御祭礼花火

 

10年余り前の初夏の明け方、父はどこか知らない遠い天上の国に向けて最後の旅に出た。

 

旅立ちの日は、葬儀社の人の指導を受けながら白い旅装束を整えてあげた。

 

「足元の白足袋の紐は堅結びにしてください。長い旅の途中でほどけてしまわないようにするためです。」

葬儀会社の人が言った。

 

でも私には判っていた。

足袋の紐をほどくことはもう二度と無いからだ。

父の革靴を磨いた遠い日のことを思い出した。

 

父は、亡くなる何年か前からずっと入退院を繰り返していた。

 

要介護の5級だった。

 

しかし父は、生来の気真面目さゆえに病棟に気を遣ってばかりで、オムツを替えてくれとか体を拭いてくれとかをナースに言わない人だった。

 

そのため、恐らく忙しいナースの皆さんの間では都合が良いというか軽んじられていたのであろう。

いつも後回しにされている感じだった。

 

しかしそのことを父に話すと、父は、「いいんじゃいいんじゃ、忙しいんじゃから。お前余計なこと言うんじゃないぞ。」と言っていた。

 

中でも、同室のうるさい患者にはいつも冗談交じりに声を掛けるのに、私の父には一言も声を掛けない、ひときわ冷たいナースが居た。

 

その日も、カーテンの隙間から父を一瞥しただけで、すぐさまカーテンを後ろ手にシャーっと閉めながら振り向きもしないで出て行った。

 

私はこの冷たい態度に我慢ならなくなり、父に不利にならないよう、匿名で、付き添い家族が偶々廊下から垣間見たような体裁を取って、厳しく苦情を申し入れた。

 

その後その冷たいナースは、慇懃無礼ながらも、まあ何とかケチを付けられないような態度に変わった。

 

冷たいナースであった。

 

 

しかしその後別の病院で、優しくてとても機転の利く若いナースに接した。

 

私にとっては恩人と言っても良い人だ。

 

それは父のこの世で最期の晩のことであった。

 

その少し前から父は肺炎を起こして顔がむくんでおり、その日は声を掛けても反応がなく、既に意識が遠のいている感じであった。

 

何かを覚悟しなきゃいけないかな、と感じた私たちは、若い当直医に「今晩病院に泊まらせていただけないでしょうか。」とお願いしてみた。

 

ところがどうだろう。

 

何を思ったのかこの若い医師は、「この調子なら大丈夫ですよ。長期戦を覚悟して今晩はお帰りになって体を休めた方がよろしいでしょう。」と答えたのである

 

この若い医師の言葉の端々からは、看護態勢や付添宿泊用の部屋の確保などの問題があるのでできれば泊まって欲しくない、というニュアンスがありありと現れていた。

 

しかし、勿論我々は専門家ではないので、医師の見立てを信用するしかない。

それに、父を預かってもらっている以上、病院にはなるべく迷惑を掛けたくないという思いもあった。

 

それで、それなら仕方ない、明日以降に備えよう、ということで帰り支度を始めた。

 

そうしたところ、さきほどの当直医の話を横で黙って聞いていた夜勤担当の若いナースが、そっと病室に来てくれて、私に耳打ちをしてくれた。

 

「残念ですが、この調子だと明日の朝までもたないと思います。」

 

ナースの言葉に愕然とした私たちは、無理を言ってその晩病院に泊まらせて貰った。

 

ナースの言ったとおり、父の容態は未明から急速に悪化していった。

 

認めたくはなかったが、生きている父に話しかけることができる時間は残りあと僅かだということがわかってきた。

 

私たちは、「最後にひとりずつ父さんに言い残したことを言おう。家族にも聞かれたくないことがあるかもしれないから、ひとりずつ交代で入ろう。」と話し合って、ひとりずつ病室に入り、それぞれが父の耳元で、父に最後の言葉を伝えた。

 

私は、「今まで育ててくれてありがとう。父さんの子供で本当に良かったよ。こんどいつか生まれ変わっても、また絶対に父さんの子供にしてね。」と泣きながら話し掛けた。

 

言い終って父のむくんだ顔を見つめていたら、ほんの一瞬父の瞼が動いたような気がした。

 

その後父の呼吸はいわゆる下顎呼吸になっていき、あのナースの言ったとおり、父はその日の明け方還らぬ旅に出た。

 

あのとき、あの若い当直医の言うとおりにしていたら、私は生きている父に最後の感謝の言葉を伝えることが出来なかったかもしれない。

 

私は、このすごく機転の効く出来たナースのおかげで、最後にほんの少しだけ親孝行をすることができ、諸々の後悔を僅かではあるが緩和することができた。