わたしにはアメリカ的気質がない。
これは数日前にピグ友と話して気づかされたことだが、改めて振り返ると、そう考えれば納得できることがた
くさんある。
ピグ友の彼女はもちろんわたしの素性を知らない。
なんとなく会話や文章の雰囲気からそう感じたというのことなのだろう。
しかしこれがまたなかなかどうして的を得ているのである。
こう書くとまるで占い師の話を鵜呑みにする頭の悪い子みたいだけれど。
(あれって願望の裏返しですよね)
わたしには行きつけの店がふたつほどあって―行きつけというほどの上客ではないが服を買いに行くとしたら
ほぼその2店である―そこで試着をする度にある違和感を感じる。
スタッフの方や訪れるお客さんが実際に身につけているのを見てもいいなぁと思うのだけれど、わたしが身に
付けると何かが違う。
いくら自分のセンスのなさを自認するわたしでも、根本的に似合わないものを選ぶ愚は犯さないようにしてい
るつもりである。
しかしその網をかいくぐったものもなんだかしっくり来ない。
絵柄は合っているのに形がほんの少し違うジグソーパズルのピースみたいに。
何人かの友人と共に訪れたことはあるが、誰といっしょに行っても、その子にはぴったりでもわたしには駄目
なのである。
結局物欲には抗えず購入してしまうのだけど(親切と受け取りたいが連れは必ず「似合っている」と言ってく
れる)、日頃からこの違和感の正体に悩まされてきた。
だがようやくわかった。
それは"アメリカ"だったのだ。
たしかにどちらの店にもほんのりとアメカジのエッセンスがある。
コテコテに西海岸とかじゃないけど。
一方は鎌倉/葉山的に、もう一方はいささか無菌的にソフィスティケートされた感のある、若干スノッブで大体が
高価な日常着。
ラフに扱えることを身上としながらも、ドレスダウンではないあの感じ。
そこにはアメリカを端から信じて疑うことがないといったような、わたしがよくアメリカそれ自体に対して感
じる無思慮でつっけんどんな主張の強さがある。
MTVに、ニューヨークのファッションフォトに、経済や軍事にと、ありとあらゆるところにその傲慢さは顔
を出す。
そう、わたしはアメリカがあまり好きではないのだ。
アメリカ人の友達や方々からアメリカの実状を聞くたびにわたしはかの国に行きたくなくなる。
国家の成り立ちや歴史や、挙げ句は文学さえもがわたしの心をアメリカから遠ざける。
そこにはわたしとは相容れないアメリカがある。
ハリウッド映画はここ何年も観たためしがない。
知り合いのアーティストの男性はヨーロッパを中心に世界各地を飛び回る売れっ子だけど、アメリカには自分
のやり方が通用しないと言っていた。
とても明快な形式がないと話すら聞いてもらえないという。
しかもその形式は彼らが用意した、彼らの基準によるものだと。
(それでも彼がニューヨークに切り込んでいきたいと切望しているのは不思議だった。
相性ってあると思うんだけどな)
わたしが違和感を感じるその大アメリカ的信奉は右向け右的傾向にかたちを変えて、日本にも見られる。
殊に文化的な分野において。
このことは最近読んだいくつかの本でも指摘されていた。
権威主義的な、しかし絶対神の存在しない、日本の他者追随性。
ボスにはひょいひょいと付いていくのに、そのボスの首がすげ変わってもいとも簡単に方向転換できるおそる
べき柔軟性。
「心の底から曲げることのできない信念」は持ち合わせてないのに、基準となる権威には簡単に従う。
というかむしろ権威が基準になる。
内容は問わない、仰ぐべき頂点さえあればいい。
日本の国民性の成り立ちを歴史的に分析すると、おのずとその性質に目を向けざるを得ないといった様子だっ
た。
その性質にわたしは辟易することが多くて、その溝を感じているが故に他者と理解し合えないことが思いのほか多いのではないかと考えている。
ただ単に服を選んでいるだけなのにも関わらず、そこにすら隔絶を感じるのだ。
そう考えるとしょんぼりするような、まいっかとも思えるような複雑な気持ちになるのですが、お店で妙なジ
レンマに苛まれて右往左往するのも痛ましいからひとまず買い物に行くことは止めよう。
必要なのはやはり悟りか。