その1はこちら





舗装路から砂利道に変わり、



しばらく歩くと沢(大曽倉川)を渡ります。
(ちなみに下見のときに古老に出くわしたのはここです(苦笑))


小さな橋が架かっています。


これより下流でもバッシーさんは「水が綺麗」と感動されてました。

長野県民の私はもう「当たり前」になってしまっていることでしたが、山からの綺麗な水を当たり前のように気兼ねなく使えているというのは感謝しなければならないことなのでしょうね。。



橋の名前は「芳平橋」。よしひらばし、で良いのかな…?

こんな小さな橋にちゃんと名前がついていて、銘板のタイルもあるのは感激!かわいい!!!苔の感じも合わせてさらに良き!!!

竣工年等はさすがにわからず…でもかわいいからよし!!!



またさらなる分岐です。

右が県道210号
左はため池に続く道です。
下見のときは何を勘違いしたか左へ行ってしまったがために、ここから先がいよいよ未知の領域です!


地図で言うとここです。


机上調査のときに「役行者像」が県道上にあるということ、右に入ったどこかにあるのかなぁ、とちょうど話していたときでした、、



!?!?

!!!

あーっ!!!
(本当に思わず叫んでしまって、バッシーさんを驚かせてしまいました)

おわかりいただけただろうか…

分岐のちょうど真ん中、小高くなっているところに…





で、出たーーー!
役行者像!!!




役行者の説明をここでしておきましょうか。

完全にWikipedia情報で勉強不足丸出しなので、詳しい方がいらっしゃれば訂正等コメントお待ちしております。


役行者(えんのぎょうじゃ)
(えんのおづの おづの おつの)
舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日701年7月16日)伝)
役 小角は、飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている。姓は君。 日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。(Wikipediaより)

と、弘法大師ほどではないですが法力を使ってどうのこうのといった伝説が色々と残っている方だそうです(雑!)




両サイドに石仏と石碑がありました。



こちらには

明治九年(?)
三界万霊塔
二月一日

とあります。


三界万霊塔の説明も載せておきます。
三界(さんがい)」とは、仏教の世界観で私たち衆生(しゅじょう)が生まれてから死に至るまでの三つの世界、つまり淫欲と貪欲の欲界(よくかい)淫欲と貪欲を離れた生き物の住む色界(しきかい)物質を超越した精神のみが存在する無色界(むしきかい)をいいます。また「万霊(ばんれい)は、この世における一切の霊のこととされています。この供養塔は寺院の門前や墓地に建てられていますが、その理由は、そこが多くの人から回向(えこう)を受けやすい場所だったからと考えられています。

…なるほどわからん…
三界全ての霊を祀ってる塔、ということで良いんですかね…
樹海の石碑もそうですが、どうもこの手の話になると頭がこんがらがってしまいます。

一応、道を追う者としては、明治期に建てられた、ということが分かれば良いということにしておきます😅




そして役行者像の台座の文字。

享和三 癸亥(みずのとい)年
十二月?日
名前らしき文字も掘ってありそうでしたが読み取れず…

「享和」とありますが、
享和とは、寛政の改革で有名な「寛政」の後、「文化」の前の元号だそうです。
西暦で言うと1801〜1804年、短い!!!そりゃ覚えてないわ!!!
江戸幕府の将軍は、11代将軍徳川家斉。

ちなみにこの享和3年というのは1803年でちょうど1603年の江戸幕府開府から200年の年。




ということは江戸の頃からこの道はあったということになる!?
街道の名前こそ無いけれど思っていたより大物か!?



裏には何もありませんでした。

ちなみに「下見」の記事にも載せましたが、駒ヶ根市のホームページ内に役行者の説明があります。(リンクはこちら


それでは役行者様に別れを告げ、さらに進んでいきます!


(続く)