光通信とクレイフィッシュのこと | ドクターきやまかずふさのブログ

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2001年6月、光通信に乗っ取られて社長の座を追われたクレイフィッシュ元社長、松島庸は当時、松島は26歳、会社と作って5年目。できたばかりの東証マザーズに株式公開する直前だった。そこでベンチャー血祭りを上げる光通信に目をつけられた。

 

 

松島は言う「どうも話が胡散臭いな、と後になって気づくわけですが、その時はもう切っても切れない関係になっていたんです」当時、光通信はオン・ザ・エッヂ(現ライブドア)サイバーエージェント、リキッドオーディオ・ジャパン、アイ・シー・エフなど公開直前の名だたるネットベンチャーの株に次々と手を出していった。

 

 

 

そのクレイフィッシュは株価も安く格好のターゲットだった。26歳の世間知らずの松島社長は、この乗っ取り劇を書いた著書「追われ者」のかで1年の死闘の末、光通信・重田康光社長の軍配が上がった習慣の心境をこう言っていている。

 

 

「株を過半数わたすことを決断してくれたそうだね。いっそ頑張って、ガバーッと儲けよう」重田はつづけた「いいか松島さん。うちの子会社になったなんて、これっぽっちも考えるなよ。光通信の資本を増やすといってもあくまでもパートナーシップで、一緒にがっちり組んでいこうということなんだ」私は素直に感動してしまった。

 

 

 

光通信にだまされてるのではなかという疑念は気飛んだ。一般の世間では、資本の比率が半分を超えれば、それは支配者の座を明けわたすことになる。が、重田康光という人物は全くちがう新しい考えをする人なんだ、と思ったのある。

 

 

2000年3月、クレイフィッシュは、東証マザーズとアメリカナスダックへの史上初の日本・アメリカ同時上場という離れワザをやってのけた。株価は暴騰し、247億円を調達。26歳の松島も2000ネ億円の資産をつかんだ。

 

 

外部資本で興銀インベストメントがトップで伊藤忠グループが2位、光通信は3位でしたから。ただ、その後、あの社会社に営業のすべてを任せちゃった。それで結局、株を50パーセントも渡すよう、おどかされる状態になってしまったんでしょ。

 

 

これも最大のミスですよ。光通信には営業の最強モデルが出来あがっている。だからあそこに任せたら大丈夫。こう信じていたのが失敗の素なんです。

 

 

営業を握られていたので、光通信さんからうちの要求をのまなければ売りませんよ、と厳しい条件をつき突きたてられても、無条件降伏しか選択肢がなかったんですよ。

 

 

「今回の時間で学んだことは、人は信用するな、信じてはいけない、ということですかねぇ」