〈はじめに〉
「名は体(たい)を表す」と言われている。
しかしなが、人が発した言葉の方がより体を表していると思うのである。
そもそも、人間が人間たらしめているものは「言葉」である。
それはコミュニケーションツールとしての意味ではない。
言葉で感動するのは人間だけだからという意味である。
その言葉の数々が世の中を変え、誰かの人生を変えてきたのだ。
人々はそれを「名言」と言い表しているが、クニラはそれを「名台詞」と呼びたい。
クニラはそれを「美学」とも呼んでいたりする。
この記事は、クニラが好きな「名台詞」を語りたいだけの記事です。
それは金言・格言の類いではなく(それもあるが)ただの「台詞」である。
クニラの好きな名台詞は、発したものの実体、すなわち「体(たい)」を表しているものが多い気がする。
(違う場合もあるが)
選ぶ「名台詞」のジャンルを問わない。
古今東西はもちろん、歴史上の人物、漫画やアニメ、映画やドラマ、ライブやコンサート、ゲーム、スポーツ等々、フィクション、ノンフィクションを問わず、そこで発せられたクニラの好きな「名台詞」を記事にしていきます。
また、「台詞」と言うと、全てフィクションと思われてしまうかもしれない。
確かに現代人が実際に発した言葉は「発言」であり、それを「台詞」とは言わないであろう。
ただ、クニラが選ぶ発言は「名言」と言えるレベルではないものもあるので、あえて「台詞」としました。
まぁ、人生など物語のようなものだしね。
また、この記事は決して真面目な記事ではありませんので、あしからず。
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【File.1「是非に及ばす」by織田信長】
日本人は織田信長が日本史に存在している事をもっと誇りに思った方が良い。
世界史に数多いる英雄達、例えばシーザーやナポレオンにも比肩する人物である。
もちろん覇業や規模の大きさは見劣るが、能力は無論の事、エピソードやドラマチックな一生は、先出の英雄にも負けていないと思う。
そんな織田信長には数多くの逸話や名台詞がある。
その中でもクニラが好きな名台詞は「是非に及ばず」である。
この台詞は、本能寺で謀反が明智光秀であることを告げられた時に発した台詞である。
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余談だが、ここで言っておきたいことがある。
歴史学者や通説覆し系の歴史本などでは、よく「これは史実ではない」とか「実際は違った」とか、いわゆる「言った・言わない/やった・やらない」論争がある。
例えば、第四次川中島の合戦で上杉謙信が武田陣営に単騎乗り込み、武田信玄に斬りつけ、それを信玄が軍配で受けたという話。
あれは軍記に記された逸話であり、資料に信憑性がないので、歴史学上ではフィクションとされている。
もちろん歴史学として事実を追求するのは、当然であり、それはそれで否定はしない。
ただ、人間の本質はそこにない。
重要な事は、先の謙信と信玄の逸話が、当時から現在まで語り継がれているという事。
即ち、当時から、謙信の性格なら単騎で斬り込みかねないと思われていたのだ。
ゆえに、この謙信のこの行動こそが「謙信の体」を表しているのだ。
それを軍配で受け止めた信玄も同様であろう。
おそらく、両陣営のプロパガンダ合戦だったのだろうが、それにしても謙信、信玄ともに像とかけはなれたフィクションを作っても、共感は得られないものなのだ。
戦が膠着して、イライラする謙信。
業を煮やして単騎斬り込みに向かう。
「マ、マジか?謙信ならやりかねない(笑)」
「えー、それで、信玄はどうしたの?」
「いや、だからさ、信玄は座ったまま、軍配で太刀を受け止めたよ!」
「いやいやいやいや、それは盛り過ぎ(笑)」
「でもさー、信玄だぜ?慌てるかなぁ?」
「それな!」
「じゃあ、マジか。。。」
まぁ、こんな感じで語り継がれたのだろう(笑)
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話を戻すと、信長の「是非に及ばず」は幸いにも「言った・言わない」論争にはなっていない。
あの状況で誰が聞いたんだよ!とツッコミを入れたくはなるが(笑)まぁ良い。
なにはともあれ、
あの状況で信長は「是非に及ばず」を言ったのです。
いや、信長だからこそ言うのです。
シチュエーションはこう。
天正10年6月2日、早朝、本能寺に攻め込んだ明智勢。
それに気が付いた信長は「こは謀反か。如何なる者の企てぞ」と蘭丸に問う。
蘭丸は「明智が者の見え申し候う」と答える。
そして信長のこの台詞「是非に及ばず」である。
シビれるではないか。
後一歩で天下が取れるのに、部下の謀反で全てが水の泡になる状況である。
中国の話なら自ら壁に頭をぶつけて憤死する場面であろう。
しかし、信長は「是非に及ばず」の一言で、この状況を片付けた。
何故か。
通説では、自分が使い続けた光秀ほどの者が謀反を起こしたのなら、逃げる隙を与えないぐらい完璧な包囲であるがゆえに、脱出は不可能と悟ったためと言われている。
確かにその通りであろう。
ただ、それだけでは信長の体とは言えないし、クニラも好きな台詞として記事に書いたりはしない。
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数多くある信長作品でも、このシーンは名場面として描かれることが多い。
ただ、作品によっては、ここの台詞を「是非もなし」としたり、「やむを得ず」と言わしたりする作品がある。
クニラはそれを観る度に、その作品を観る(読む)のを止める程、興が醒める。
この場面での台詞は絶対に「是非に及ばず」でなければならない。
「是非に及ばず」も「是非もなし」も意味は同じようなものだが、ニュアンスが違う。
なにより言葉が持っている響き(力と言っても良い)が違う。
このニュアンスが分からない人とは友達にはなれない。
柴田恭兵で例えるなら、
「是非に及ばず」は「関係ないね!」だ。
「是非もなし」だと「みっちゃん、ヤクザがプロで、俺達はアマチュアなのかねぇ?チンピラのプロって無理なのかなぁ。。。」程の違いがある。
なぜ、柴田恭兵例え?と思った方には言っておく。
それこそ「是非に及ばず」だ。
柴田恭兵に意味はない(笑)
「是非もなし」となると「仕方がない」に近いニュアンスに感じてしまうが(人それぞれだが)この場面で信長は絶対に「仕方がない」なんて言わないのだ。
彼の人となりや歩んできた人生が、それを証明している。
ましてや、外国人の書物で書かれた「余が余自ら死を招いたな」などとは絶対に言わん。
それは、この外国人の感想だろう(笑)
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では、なぜ、信長がこの場面で発した台詞が「是非に及ばず」でなければならないのか。
それは「是非に及ばず」という台詞が信長の体を表しているからだ。
では、信長の体とは何か。
クニラは、信長の体を「異常な合理主義者」だと思っている。
信長の人生は、世の常識や他人の話などを信じない。
信長が信じるものは、自分が見たもの、経験したもの、考えたものだけである。
それを基準として、自分にとって「必要か必要でないか」「役に立つか役に立たないか」「使えるか使えないか」「効率的か非効率的か」等々を判断している。
ある意味、信長自身にとっては単純明快であろう。
この徹底ぶりは、異常な程、合理的(デジタルといってもよい)であり、現代人に近い気がする。
なんなら信長はタイムリーパーではないかとすら思う。
余談だが、桶狭間の奇襲も、信長にとっては、現状で最も勝てる(生き残れる)可能性があったから行ったに過ぎず、合理的な考えの上でだ。
その後は大で小を圧倒する戦しかしていない事を見れば分かる(これも信長の凄さだ)
まぁ、それ以外にも信長の合理的エピソードは尽きない。
そんな異常な合理主義者の信長が自らの死を覚悟した際の感情はどうであったのだろうか。
おそらく「無感情」であったろう。
ゆえに「仕方がない」とか「無念」とか「悔しい」とかのニュアンスが含まれた台詞にしてしまうと、信長(信長作品)が違うものとなってしまう。
「是非に及ばず」でなけらばならない理由はここにあるのだ。
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後一歩で天下を取れるところまできたのに、自分が取り立てて、使い続けた部下に、謀反を起こされ、絶対絶命の状況。
今まで築き上げてきた全てが瓦解する事実と、人生の終わりを悟る瞬間に発した「是非に及ばず」という無感情な台詞こそが信長の体を表しており、信長の全てが凝縮されている。
ゆえに、クニラはこの台詞が好きであり、感動するのである。
こんな状況に置かれたら、クニラは絶対に言えない台詞だ。
なんなら、謀反を起こした光秀にではなく、謀反を告げた蘭丸に「お前なにやってんだよ!」と八つ当たりするわ(笑)
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クニラの好きな台詞「是非に及ばず」は信長の体を表している。
きっと、信長としては、この台詞に意味などはなく、ただただ自分が置かれた状況に対しての感想を述べたに過ぎなかったのだろう。
それがゆえに、この台詞には人に非ざる凄味があり、鳥肌ものの名台詞なのである。
その後の敦盛の舞などは蛇足に過ぎない。
おわり。