「オヤジさん」第4回 

 やっと田舎に着いた親父は、私が入院している黒羽という街の医院に駆け込んで来た。そのときは、私はお袋の兄弟たちに助けられて、20キロの道のりをリヤカーに乗せられ、この街の小さな医院に入院していたのだった。道々、今にも息を引き取りそうな私を、お袋はどんなに不安だったろう。

 入院して直ぐ、医者は私の身体から膿みを出すための手術をした。今もその跡は生々しく手足に残っている。注射の跡もたくさんある。

 お袋は、弱りきったそんな私の身体を抱いてくれていた。親父は着いてからまる一日、心配な気持ちを抑えてじっと医者の診療を見ていたという。

 医者の説明によると、丹毒そのものは峠を越したと思われるが、注射等によって身体の抵抗力がなくなり、手術や注射の跡が直ぐ膿んでしまうし、体力の衰弱もはなはだしいので危険な状態だという。

 親父は、息子は直るのかどうか、直せる自信はあるのかと詰め寄ったそうだ。“初めての息子を死なせてなるものかと必死だったもんな”親父は晩年、酒に酔ってはそう言っていた。

 医者は、実は治療法がわからず困っていると言ったらしい。親父は直ぐ上の兄にも相談し、良い医者はいないかとあちこち聞いてまわったそうだ。そして、宇都宮に名医が居るという情報を得ると、すぐさま私を抱いて宇都宮に飛んだ。

 

オヤジさん 第3回


 私はずっと、生まれたときからずっと親を心配させてばかり来たようだ。

 生まれて二ヶ月もしない頃に、丹毒という病にかかった。ペニシリンが開発される1年前である。

 私自身に記憶はないが、足のところどころは赤くはれ、膿を持ち、リンパ節もはれて痛がり、寝かせると火が付いたように泣くので、お袋は一日中抱いていたという。

 そのころのお袋と私は、お袋の実家である栃木県那須地方の山奥に住んでいた。当然近くに医者はいない。

 やがて、私は危篤に近い状態になったらしい。お袋は、青森の大湊にあって海峡防衛の任に当たっている軍艦に乗り込んでいたオヤジに電報を打った。オヤジは電報の届いたその日のうちに艦長の許可を取り、私たちのところに駆けつけてきた。

 私は今でも、時々このときのことを思う。大湊から那須の田舎までいったいどのくらいの時間がかかったんだろう。子煩悩のオヤジが、その間どんな気持ちで汽車に揺られていたんだろう。おそらく居ても立ってもおられず、汽車の中を駆け出したい気持ちで一睡も出来なかったのではないか。もしかしたら「之幸死ぬなよ、死ぬなよ」と、神仏やすでに天国に行っているオヤジの父に祈り続けていたのかもしれない。

 遠方に旅行に出た息子たちが、連絡がないというただそれだけでオロオロ心配している私自身に気がつくとき、このときの親父の気持ちが痛いほどわかる。