二世教育の将来を共に考える (5) | 親と子の訓読家庭教会

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後天時代に於ける子女教育を考える

二世教育の将来を共に考える



親の成長と子供の成長(2)

おそらく十分な条件と基準を持って御父母様から祝福を受けた人は殆どいないでしょう。そりよりも、むしろその後の私達の成長を信じて御父母様が祝福を与えて下さったと言えましょう。それならば私達は、祝福を受けた後も夫婦として、更に祖父母としても、続けて子供達と共に成長して行く必要があるのではないでしょうか。何故ならば、これからは夫婦としての成長、親子としての成長が祝福中心家庭としての大切な最後の信仰実績となるだけでなく、それが正に私達が天一国の市民権を受け そこに住み着き 子孫を繁栄させ 更には皇族圏にも入っていく為の最大条件にも成って行くと思われるからです。

先回から子供に対する具体的な指導方法の説明を始めましが、今回からさらにもっと詳しく、例を挙げて説明してみたいと思います。まず「内的価値観」の教育をまとめますと、先に述べました様に それは私達が口でいったり 説明したりして与える教育ではなく、むしろ日常生活のなかで「一貫性」をもって与えるもので、子供達は親達の日頃の態度を見ながら自然に感じ取って行きます。以下の例は私がニューヨークの市立短期大学でずっと教えていた時に、ファミリー・ヴァリューの一環として教えた内容の一部ですが、先ずは良くないパターンから先に挙げてみたいと思います。



自分の感情で叱らない、褒めない

<例1>親があまりにも感情的な場合です。子供の態度に関係なく、気分の悪い時には子供を叱り、反対に気分の良い時には叱らないで甘やかしていたとします。

それでも子供は歳が増えれば、何が本当に良い事か悪い事か位は自然に解るようになります。しかしながらそれよりも問題なのは、そういった善悪観よりも、親の機嫌を中心に生活する子供に育ってしまうことです。その様な子供は将来において 自意識過剰に陥りやすく 神の目よりも人間の目を気にする子供になってしまう危険性があるということです。

勿論、他人のことを考えたり助けたりする事はとても重要な事ですが、神の存在や御旨を動機とするよりも、他人からの評価や視線を中心的動機として行動する子供になってしまっては困ります。そして、このような子供は、将来的に、信仰生活よりもこの世の人間関係や生活に引っぱって行かれたり、自信の無い子に育ってしまう可能性もあります。

その様な性格の子供は概して精神的に不安定で心配症であったり、本当の意味で自分に自信がないことが多かったり、見栄をはったりすることが多いものです。更にそのような子供は、たとえ外的には祝福にいったとしても悲しいかな、その後の夫婦関係や親子関係がうまくいかない可能性もあるのです。



「やめなさい、皆んなが見ているでしょう」

<例2>子供が教会や、又は公的な場所などで悪作をしたとします。それに対して親が「皆が見ているでしょう」とか「恥ずかしいでしょう」とかと言って注意したとします。

私達親は、どうして悪いのか詳しく説明するのが面倒くさいので そんなに深い意味もなくこの様な事を言って済ましてしまうことがあります。しかし、幼い子供の心は時にとても純粋です。いつもこの様な言葉だけで指導されていると「神」よりも「人」の目と評価を気にする子供になって行く可能性があります。更には、「人が見ていなければ構わない」と思う様な「裏と表」がある子供に育つ可能性がないとも言えません。そして私達は、将来子供達が 社会に於いてたとえ他人から認められなくても 正しい事ををハッキリ言ったり行動したりしないといけない時も来るだろうという事も考えなければいけません。(次号につづく)               

                      

                              (2011年11月04日付)