二世教育の将来を共に考える (4) | 親と子の訓読家庭教会

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後天時代に於ける子女教育を考える

二世教育の将来を共に考える


「神」の存在を感じ取る基本的能力

色々な二世たちを指導してきて言えることは、思春期になってから信仰が伸びる子供や、もしくはもっと幼い頃から既に信仰があって、思春期になっても変らずに成長する子供の殆どは、無形なる絶対者(神)を感知し、意識する性質が強いと言う事です。


その無形なる絶対者と言うのは、原理で説明している創造神でなくても最初はかまいません。キリスト教的神でも、仏教的法力でも、又は自分なりの絶対者であってもかまわないのです。何が子供達にとって大切かと言うと、始めはどんな存在であっても、目には見えないが大切なお方が実際に居て、私達を見つめていると言う事実を感じ取る感性がどれだけあるかと言う事です。


実際に子供達の話をよく聞いて見ると、子供一人一人によって かなりその感性の強さに差がある様に思えてきます。そして、その感性の力とは前号で説明した様に、「良心作用」の中核を成す「内的価値」を求める力と繋がっている様に思えます。つまり、目に見えなくても精神的で、かつ永遠に変らない「何か」を求める心が、無形であり「唯一」「永遠」「絶対」「不変」であられる「神」の存在への確信と願望へと導いている様に思えます。


それでは、同じ「良心」を持った子供達の中でどうしてその感性に違差が出て来るのでしょうか。その問題を幼児教育の観点で見てみますと、どうも親の影響がとても大きい様に思えます。



「神観」の成長に影響を与える親子関係

本来の家庭、もしくは復帰された家庭とは「神」を中心とした「家庭的四位基台」であり、そこには「四大心情圏」を基盤にした子供達の自然な成長が期待されます。自然な成長とはいわゆる蕩減復帰を中心とした「万物復帰」や「伝道」による教育を必要としない教育であり、または「出家」等による「分別生活」をも必要としない教育です。その代り、子供達は彼ら自身の家庭の中で「兄弟姉妹」と共に「為に生きる」訓練をしながら成長して行かなければなりません。そして、その中では親の使命がとても重要になってきます。


私が参加した2008年の最初の原理本体論の修練会の中で、御父様は、これからは教会組織や牧師達ではなく、親達が直接子供に対して性教育(絶対性教育)をしていかなければならないと言われました。顕進様も家庭教育における親の責任分担とそのスタンダードの重要性を幾度となく語られています。つまり私達は「後天時代」において、すでに自分達がそこまで責任を持った「祝福中心家庭」に成って行かなければならない事を自覚する時に来ていると言う事です。


日頃の家庭生活において、子供達は無形であるが絶対に変らない「何か」を幼い頃から親達の生活の中の言動を通して感じて行きます。親達が優しいか厳しいかというのが問題なのではありません。またどんな教育材料を使うのかというのも中心課題ではありません。それよりも大切なのは、親達の日常生活における言葉や行動の中に 子供達が自然に感じ取れる「内的価値観」がどれだけあるかと言う事です。



親の成長と子供の成長

勿論、私達食口は、皆既に内的なものを中心にして生活していますし、そうでなければ今まで信仰生活が続かなかったはずです。しかしそれが形だけの信仰生活に成ってしまっては、子供達もなかなか付いて来ません。それでは、その上になにが必要かと言うと まず第一に親達の日常生活における言動の「一貫性」もしくは「不変性」であります。


つまり、いくら良い事を言っても行なっても、その態度がしょっちゅう変っている様では いけないと言う事です。これは、なかなか難しいことですが、子供達の話を聞てみますと親達の日常生活における二面性につまずいている事が大変多いのに気づかされます。確かに、「神」は内的、霊的、精神的なものを主体とされたお方ですが 同時に「不変性」と「一貫性」を持って変らずに人類を導いておられるお方でもあるのです。


更に第二番目に必要な事は、親達がその様な「内的価値観」と「一貫性」を中心とした生活を、実際に「喜んで」やっているかどうかと言う事です。すなわち、いやいやながらそういう生活をしていては子供達には付いて行くのが難しいのです。そういう意味では、私達親の日常の信仰生活や家庭生活は 旧約的な「しなければならない」、もしくは「させられている」生活ではなく 新約や成約レベルでの「したくてする」、もしくは「すすんでやる」生活に成って行かなければなりません。


実際、本来の神の創造の目的は「喜び」である限り私達の日頃の信仰生活も「喜び」を中心とするか、少なくとも最終的な幸福を目指した「希望」的なものでなくては、二世達にはピンとこないのです。これを顕進様は信仰生活に於ける「オーナーシップ」という言葉で何度も説明されています。


以上の様な点を(例え完全ではなくても)親達が実践していきながら、親子で共に成長し、更にその上に「為に生きる」生活を夫婦の関係を含めて実践して行くならば、子供達はその親達を見て本来「神」によって与えられた「良心」と「本性」の力によって自然に「神」なるお方にたどり着くと言う事です。これは教育というものは知識だけでなく、むしろ体験の積み重ねによて成されるべきであるという顕進様の提唱される「経験教育」の内容とも将来繋がって行きます。(次号につづく)


                   (2011年10月25日付)