二世教育の将来を共に考える (6) | 親と子の訓読家庭教会

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後天時代に於ける子女教育を考える

二世教育の将来を共に考える



絶対的価値で愛すると言う事

<例3> 親がいつも良い成績をとる事や、何かで一番になる事や、更には教会で活動をする事を外的にだけ奨励していたとします。そしてそれが出来たときは褒めるのですが、出来なかったときはどうして出来なかったのか、その内的事情を聞かないで、ただ単純にしかる習慣があったとします。

この様な場合、子供達はその愛を「条件付」と捉えてしまう事があります。すなわち、「自分に何々が出来るという価値がなければ愛されない」と思うようになるのです。そうなって来ると子供達の中には価値を発揮してもっと親から愛されようとする子と、価値がないから愛されないとあきらめてしまう子に分かれてしまいます。そして、たとえ子供が価値を発揮して愛されようとしても、もし彼らの中で「価値=愛」と言う様な方程式が心の中に育ってしまうと将来「人々から認められなければならない」と思い過ぎて競争心が過剰な性格になったり、逆に不安に陥りやすい心情的不安定な子供になったりもします。

本来、価値を求める事自体は間違ったことではなく、神も人間の原理的価値と、その為の成長を求めるゆえ、親も子供達から何らかの価値を求めるのは当然です。しかし、その親の子供に対する価値要求が外的なものだけでなく、より霊的なものが中心となっているかどうかをチェックしてみる必要があるかもしれません。

そして何よりも良くないのは、そのような理解によって「神」とは「価値」を求めるお方という最初のイメージが子供のなかで出来上がってしまい「愛する神」より「要求する神」の方が強くなってしまう事です。そうなると、段々と「神」を厄介者と思うようになったり、最悪の場合は「神」を恨んだりして、段々霊的生活を無視する様な道に入って行く子供達も出て来ます。

神の愛の本質は、我々の価値の程度によっては変りません。ですから、私達親の子供に対する要求も相対的ではなく「絶対」で「不変」なる愛が基盤になっていなければ何の意味もありません。御父様もその御言葉の中で完成した真の愛を中心として全ての相対は平等である事を何度も語られています。(平和訓経#3等)

他の兄弟姉妹と比べない

<例4>「お兄さんはよく出来るでしょう。」とか「妹はもっと上手でしょう。」と言う様にほかの兄弟姉妹と比べる様な事を言ったとします。そうすると子供達はよその子供達と比べられた時以上に「愛と価値の問題」だけでなく「愛の平等性」の問題でなやむ事が多々起り始めます。

そうすると「お父さんは僕より兄さんの方を愛してるんだ。」とか「妹の方がお母さんの好みだ。」と言う様なことを真剣に思うのです。そのように、自分達の親が公平に子供達を愛していないと本気になって言ってくる子供達があまりにも多いのに驚かされ、また私自身も反省させられました。

私達自身も私達の親から本当の意味での平等で無条件な愛を十分に受けて来なかったかもしれません。でも、この世には完成された家庭はないのですから、我々はある程度皆同じ立場に立っていると言えましょう。しかしながら、たとえ私達が未完成であったとしても、我々祝福家庭は出来る限りにおいて復帰された家庭の確立を目指し、子供達にはより本来的な四大心情圏の通過と成長をさせてやりたいものです。

私達祝福家庭は一般の家庭より多くの子供を授かりやすいという恵みを受けていますが、本当に全ての子供達を平等に愛しているかどうかを今一度チェックしてみるのも良いでしょうし、たとえ平等に愛しているとしても子供達一人一人が平等な愛を感じているかどうかもチェックしないといけないかもしれません。何故ならば、子供一人一人は余りにも特有な個性真理体としての別々の性格と感性をもっている為、それぞれの子供はその愛の感じ方や 感じる方法がずい分違う事が多いのです。

そう見ると、御父様が肉の子女を授かる前に 先ず霊の子女を立てて、私達に愛する訓練をさせられたのも、その理由の一つだと言えましょう。更に、大切な事で私達親が意外に解っていない事があります。それは多くの祝福子女達は親からも 回りからも 私達の知らないうちにいつも色々な無言のプレッシャーを受けながら育って来ているという事実です。(次号につづく) (2011年11月11日付)