「オウム死刑囚 魂の遍歴」門田隆将 著

 

生徒さんのインスタの中にこの本を見つけて、図書館で借出して読んでみた。

とてもおもしろく読めた。

ノンフィクション作家としての門田氏の力だと思う。

オウムの元死刑囚 井上嘉浩について書かれている。

 

 

私のところにはときどきスピリチュアル大好きさんとか、ヒーラーさんとかいう人種がやってくる。

この人たちの特徴は2つ。

 

①自分を特別な人間だと思っている。

⓶知識や情報と経験の区別がつけられない。

 

①は話す必要もないだろう。

どんな世界でも高い能力を持っている人間は努力の塊だ。

そういう人は自分のやることを技術だと称するし、やれば誰でもできると言い放つ。

⓶についてはめんどうくさい。

本や映像で、例えば「クンダリニーエネルギーの上昇」なんてものを知識や情報として知ってしまうと、いくらも経たないうちに起こってしまったり、わかってしまったりするわけだ。

もちろん起きてるつもりだし、わかってるつもりに過ぎない。

人間は念じ込めば、熱が出たり、痛みが起きたりすることはあるし、それは珍しい現象ではない。

本当に稀に何の情報もないのに起きてしまう人間もいて、そういう人ははっきり言って悲劇だ。

 

この本で一番笑えるというか、情けないのは 第9章教祖さまの誕生 というところか。

松本智津夫(麻原正晃)のことだ。

1978年に千葉県船橋市に鍼灸治療院開業。

1982年に薬事法違反で逮捕。

全盲の彼の兄の真似をして、蜜柑の皮を薬と称して販売したのだとか。

彼の兄は「体内を浄化する」と称して何と2万円で売っていたとある。

詐欺で捕まった人間が同じ土地で治療院などやっていけるわけはない。

1983年渋谷にヨガ道場 鳳凰慶林館 開設。

なんと翌年だよ。

偽薬の販売で失敗したから次はヨガか。

ここで著者の言葉を引用すると、

「詐欺師の道を歩み始めたら、その道から抜け出すことが容易ではないことは、これまでのさまざまな犯罪史が証明する通りである。」

81年の阿含宗に入信して84年退会している。

鍼灸師として学んだ東洋医学に解剖生理学、それに仏教とおそらくはそこからの波及であろうヨガの知識、ということか。

 

1988年にはチベット仏教僧のカール リンポチェ師に教えを請いに行く。

ここで自身の神秘体験について語ったらしいのだけれど、リンポチェ師はそれを一切認めない。

体験をコントロールすることが解脱なんだ、と繰り返し言ったのだとか。

 

どういう意味だろうね?

 

クンダリーニヨガなんてやっていると、やれ光だ音だ色だとくだらんことを言う輩には大勢会う。

その手の出来事は私にもたくさん起きているけれど、そんなことは重要ではない。

要はその経験が、自分にとって何を意味するかが重要なんだと私個人的には思うのだけれど。

 

で、麻原彰晃は読んだ感じだとリンポチェ師に逆切れして帰国する。

 

これ以降オウムは暴力に走りだすらしい。

 

 

この著作の中心人物である井上嘉浩氏に対しては、どういう感想を持っていいのか正直なんとも言い難い。

この本を読んでいる限りでは、同情を感ずる。

井上氏が法廷で語った文章からひとつ引用すると、

 

「松本智津夫氏はいかなる不合理な指示であろうと、グルの意志を実践した弟子のみがグルと合一し、解脱に至ることができると教えていました。しかし、本来、すべての衆生が仏性を有している以上、私たち一人一人が自己に内在する仏性に気づき、覚醒することが解脱であって、グルのコピー人間になることが解脱であるはずがありません。」

 

私は解脱にも覚醒にも興味はない。

そんなものはただの言葉だとしか思っていない。

仏教は日本文化の一部として興味は持っても、それ以上の興味はない。

ただこれを読んでいると、オウムにハマる前に、彼に誰かこの考え方を伝えてくれなかったかなとは思う。

 

指導者の役割とは、教えて放つということに尽きるのだ。

 

井上氏が獄中で面会と文通を繰り返していたと著作にある、真宗大谷派の尼僧 鈴木君代さんの歌うアメージンググレースの替え歌があったので貼っておきます。

 

 

 

 

クンダリーニヨガ吉祥寺

 

人はなぜ自由を求めるか?

 

教育テレビの子供向け大喜利か!

 

(笑)

 

私たちがここに「いる」というのはどういうことか?

宗教や哲学を愛好する皆様には恐縮だけど、それは肉体の存在を指す。

正確に言えば肉体に満ちる「気」「プラーナ」への知覚だ。

もっとも気とかプラーナとかいうものは精神や心にも影響するから別物ではない。

しかしそもそも肉体と精神とか心と体とかいう言葉ができた時点で、別々のものと認識しているわけだからそれを言葉でひとつのものとして捉えるのは不可能に近いと思う。

 

そして自身がここに「いる」ことを知覚するための手段としての「気」は肉体の中に閉じ込められる。

これが私たちに「自由」の消失感を与える。

 

比較解剖学の泰斗、三木茂夫博士は「遠のまなざし」とおっしゃる。

二足直立で立ち上がった我々は遠くを見つめる。

地平線の彼方、水平線の彼方、空の彼方を。

それは肉体の中に閉じ込められた「気」が発する自由への憧憬ではないか。

 

この「気」「プラーナ」を頭頂部サハスラーラチャクラから頭上に発することで、肉体という桎梏から我々は解き放たれる。

 

人間にとって「根源的自由」とはこういうことだ。

 

面白いのは私は武術系の人間だから、肉体というものをどのようにあらしめるか?制御するかに腐心する。

そういう私が肉体というものから抜き放つことで自由を知ったというのは、我ながらおかしい。

 

自身の脳の働きを記憶や感情や思考や言葉より身体に振り向けるのが常態化しているというのは、まあ楽しい。

 

長年カンフーを学んでいたある女性が、私と彼女の先生を比べて、

「あなたたちはタイプは違うのだけれどどこか似ている。そして共通しているのはいつも楽しそうにしているということだ」

とおっしゃってくださっていた。

 

そういう私が自由というものの正体を知ったわけだ。

 

そしてそのために必要なのは肉体を制御する力なのだということ、努々お忘れなく。

それが私たちのヨガです。

 

クンダリーニヨガ吉祥寺

 

少々遠方の方からメールをいただいた。

 

返事は出したのだけど、それとは別にこのヨガにおける私の考える上達のステップというものについて記しておきたい。

 

参考までに。

 

まずは体を作るということ目指さなければならない。

私の言葉でひとことで言えば、下腹部を締めてみぞおちを緩める。

この達成のためには一定レベルでの脊柱と胸郭の柔軟さは要求される。

これは決してアクロバティックな柔軟さではない。

誰でもできると思ってもらって差し支えない。

加えて骨盤の安定を手に入れるために大臀筋と大腰筋、腰方形筋の使用度を上げる。

筋の強化や肥大化ではなく、使えていない筋肉を使う努力をする。

ドーム状でドーナツ形の横隔膜の脊柱寄りの部分の緊張を取る。

肩関節、上肢帯の強化も必要になる。

 

この辺りができてくると、

「下腹部を締めてみぞおちを緩める」

が、わかるようになると思う。

すると下腹部で呼吸をコントロールすること、延いては丹田の存在に理解が届くと思う。

さらにはウディアナバンダが理解され、ほぼ同時にキルタンクリヤで眼球が動き出すのが理解できると思う。

アジュニーチャクラの理解には眼球のコントロールが必要なのだと度々言っているけれど、その意味をここで解すると思う。

 

概ね私のクラスでは週1回で1年あればここには至る。

残念ながら肉体的なまたは精神的(これまでのところ取り組み方)な問題で、ここに至らない方もおられる。

以前はよくいらついていたのだけど、今では上達にも必然というものがるのだろうと考えている。

また肉体的にはそこに至っていても、そこに何の意味も価値も見出さない方もいる。

こういう人たちは私が思うに言葉の人たちだ。

身体的な経験では学ばず、言葉でのみ学ぶ。

こういう人たちのためにジュニーニャヨガなんていうものがあるんじゃないかと思う。

また人生におけるタイミングというものもあるのだろう。

 

ここで知っておいて欲しいのは、

私たちのヨガにおける根幹技法はサットクリヤとキルタンクリヤだということ。

火の呼吸ではない。

あれは重要な補助技法だといっていい。

そして100種類を超える瞑想の中で重要なのは、キルタンクリヤとロングチャントとラヤヨガメディテーションだということ。

 

次のステップにおいてはキルタンクリヤを達成していただきたい。

キルタンクリヤは本当に習得すると、頭の中が後方に回るようにして動き出し、頭部の位置が胴体に対して後上方に引き上がる。

かなりあごを引いた姿勢が通常のものとなる。

外側から顎を引いて作るのではない。

頭の内側から作り上げるのだ。

私はこれを練習を始めてから半年で理解した。

その頃は始めに教えてくれていた人物ともまだ交流があったので、話そうとしてみたが彼がわかってはいないということがすぐに理解できたので話すのを止めた。

後にティーチャートレーニングに参加したとき知ったけど、誰もわかってはいなかった。

ティーチャートレーニングの担当指導者にこういうことがおきたと話したら、その白人の女性は「あなた、起きたの!」という顔をして大変おどろかれた。

実際これを達成している人間に会ったことはまだない。

こういうことが起きるらしいということをうっすらと知っていた人間はいた。

その人物が空想で「エネルギーがぐるぐるーっぶわーっ」とかいうのを聞いたときは顔を覆って泣きたくなった。

だがほとんどの練習者は全く知らない。

だからキルタンクリヤなど、ただの奇妙な瞑想に過ぎなくなる。

そして技術がわからなくなったときに忍び込むのは人間関係だ。

ばかばかしい。

 

なぜこんな姿勢になってしまうのかは長年疑問だったけど、今ははっきりわかる。

それは頭上に抜くためだ。

上がってきた「気」はある者はみぞおちの裏で止まり、ある者は首の付け根で止まる。

しかしそれらを超えて頭の中に入ってきたとき、これは頭上に抜く力を持っているのは絶対だ。

そのためにはこの姿勢とバンダが必要になる。

頭上に抜くことができずに頭蓋内(ブラフマランドラ)に入ってきて、さらに蓄積されてしまうとどうなるのか?

少々恐ろしいものを感じる。

クンダリーニエネルギーが危険と称されるのはおそらくこういうことだろう。

であるわけだからキルタンクリヤを絶対に突破すること。

絶対に!

 

ロングチャントつまりチャクラ瞑想を解いたのは4年目だったか。

ティーチャートレーニングを修了させて、ぼちぼち本気でいくか!みたいなノリだった。

(笑)

チャクラは閉じたり開いたりせず、その語源通り丸く現れる。

私の場合はそのときに身体の消失感を伴った。

そこから私が得たものは、人が自分だと思っているものとは記憶や感情や思考なのだけれど、それは存在しているということとは別なのだということだった。

そしてチャクラ瞑想とは点への気の集中だと思っていただきたい。

余談だけど火の呼吸の名称を世に知らしめた小山一夫師やハタヨガの成瀬雅春師も、チャクラは丸く現れるのであって開くということはないと著作の中でおっしゃっておられる。

多勢に無勢もいいところだけれど。

 

ラヤヨガメディテーションにおいて答えの領域に突入したのは去年のことだから16年目だ。

随分時間がかかった。

その理由は簡単で、正しいラヤヨガメディテーションの形がわからなかったから。

初めにならったラヤヨガメディテーションはかなり正しいものだと思われるけれど、やはりまちがっていたということと、ティーチャートレーニングで習ったラヤはおそらくは抜かれていると思われるということ。

この二つを組み合わせ、既知である丹田やチャクラ、脊椎の構造と組み合わせつつ、私なんぞより感覚の鋭い生徒さんの力も借りながら、なんとか今練習している形のラヤヨガメディテーションを組み立てた。

この「間違ったものを指導者もなしになんとかかんとか修正してものにしてみせる」というのは、凡庸な私に天が送ってくれた唯一の天分らしい。

もっとわかりやすい才能が欲しかった。(笑)

始めから今の形のラヤヨガメディテーションを練習していれば絶対に10年はかからなかった。

5年か6年、遅くとも8年あれば今の領域にはこれたと思う。

このブログで最近書き続けている、人間にとって真の幸福や自由ということは、この瞑想で知った。

 

付記しておくと私がクンダリーニヨガの練習を始めたのは、柳生心眼流の稽古を始めて17年目のことだった。

その下地があったからこそ、このヨガと心眼流の身体観が似ているということに気付けた。

実際に指導していて明らかに潰しが効いていると思われたのは、長年太極拳の練習をしている方だったり、フラダンスの練習をしている方だったり、チベット仏教を学んでいる方だったりしている。

伝統武術や古典舞踊に身体のコントロール方法が近い。

チベット仏教のことはよく知らないけれど、ラージャヨガの色を含んでいると思われるがどうだろう。

 

 

以上、同じ道を歩んでくださる方、歓迎いたします。

 

クンダリーニヨガ吉祥寺