―≪3・11から8年クモスケ被災地流浪の旅日記≫―1 | 世直し「クモスケ」のブログ

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オイラは通称「クモスケ」推定40

被災地からハマ(横浜)に戻ってきた年収200万円の「タクシードライバー」

「港の見える丘公園」ではなく、「緑山スタジオの見える青葉区」に住んでるぜ!

古女房と11歳の長女に6歳の長男の4人暮らしで「チョー貧乏」な一家です。休日には時々、材木座海岸や七里ヶ浜でウィンドサーフィンを楽しんでるよ

 

「震災から8年を迎えて」

 

被災地の人々の心は、未だに時計が止まっているのだろうか……暗鬱たる思いで被災地を後にした。現地では、これまでほとんどの被災者が当時の事を語りたがらなかったし、何もなかったように日々の生活を送っていた。石巻市では現在、被災地域は全ての瓦礫なども既に撤去され、遅れてはいるが護岸工事の真最中であり、復興住宅も完成したことから多くの仮設住宅が取り壊されてほとんどの罹災者が入居している。また震災で壊滅・消滅した牡鹿半島地区などの漁村は、すべてがさら地になり復興工事に取り掛かかり始めている

 

女川町もすっかり復興を終えて立派な街に生まれ変わり昨年は、優れた都市デザインや街づくりを表彰する2018年度都市景観大賞の都市空間部門で「女川駅前レンガみち周辺地区」が最高賞の国土交通大臣賞に選ばれた

 

だが、他県から被災地へ転居してきた「よそ者」のオイラは、「震災遺構」に指定された「大川小学校」「旧門脇小学校」と、町全体が消滅した南浜町などへ被災地視察旅行に訪れてきた乗客を案内する都度、その筆舌しがたい被害状況の凄まじさ、東日本大震災の想像を絶した破壊力(広島型原爆316700発分のエネルギーに相当)を目の当たりにしたときの衝撃に毎回、乗客とともに涙し驚愕するばかりだった。未曾有の自然災害に急襲されてしまった多くの被災者は、きっと当時の事を思いだしたくないはずだし、亡くなられた被災死者のご遺族の皆さんは生涯にわたり様々なトラウマを抱えながら生きていかなければならない。できれば、各メディアはそっとしておいてほしいと願っているだろう

 

しかし、決して「あの日の事は風化させてはならない」と、義憤に駆られたオイラは今回、被災地に潜入取材していた頃の日記を公開します。被災地の貴重な画像や情報なども満載。なお、大半が平成29年前後に取材した内容なのであしからず

 

1 忘れられない記憶と風化させてはならない記録~石巻市

 

「もう、どうでもいい、と思う。どんなに頑張って働いて金をたくさん稼いでも、ああこうやって人間は簡単に死んでしまうから、あの世には一円の金を持っていけないので意味ないな、今まで努力してきた事が何にも報われないんだな、と、毎日毎日大勢転がっている遺体を見ていると、俺はそういう気持ちになって、欲も何もなくなったのさ」

今年(2017年)1月下旬、駅から石巻市内最大の仮設住宅団地『開成団地第13団地』まで乗せた客が途中の車内で突然、投げやりな口調で語り出した

 

乗客は佐藤さん(仮名)といい、45歳で無職の男性。オイラが昨年の6月、東京から来て以来時々、石巻駅タクシー乗り場で彼を乗せることがあった

「今日は雪で寒かったですね」以前、オイラが声かけても「ああ……うん」と、彼は俯いたままかすれるような声で反応するなど、車内では常に不愛想で無口だった。彼は長身だが、内科系の病気に罹患しているようで、かなり瘦せ細っている。目つきがどことなく異様であり、彼が明らかに普通の社会人ではないように見受けられた

 

なぜか、この日だけは彼の方から積極的に話しかけてきた。震災後、彼が配給された支援物資・食糧などを受け取るために外出すると、石巻市内の至る所に無数の遺体が転がっていたのを目撃したという。最初の頃は恐怖を感じていた。しかし、次第に多くの遺体を見ているうちに慣れてしまったが、気温が上昇した日だけは遺体の臭いがひどくて我慢できなかったという

 

彼は震災前、石巻市内旧門脇町で父親と母親の三人で暮らしていた。3・11では、年老いた両親が自宅ごと津波に流されてしまい、未だに行方不明だという。当時、彼は仕事で仙台に行っていたために助かったのだが、被災してからは何かをする意欲が失せて仕事にも就けず、精神的におかしくなってしまったと、打ち明けてくれた(次の画像は佐藤さんの自宅があった区域:旧門野脇)

(画像提供 石巻市復興まちづくり情報交流館)

しかし、佐藤さんとの会話は、この日が最後となってしまった。3か月近くも駅のタクシー乗り場で見かけない佐藤さんのことが気になっていたオイラは先週、駅構内で待機していた顔見知りのタクシードライバーにそれとなく訊ねてみた。すると、

「ああ、佐藤さんなら2月に死んだみたいだ。病気が悪化して仮設で死んだ後に発見されたとか、ノイローゼで首吊ったとかの噂話を聞いたよ。はっきりしたことは俺にはわからないけどな」

眉をひそめながら、淡々とした口調で教えてくれた。あの日から6年経過した今でも、被災地復興の陰にはメディアで報道されない悲話が途絶えることがない

(撮影:河村龍一)