去る5月18日(土曜日)、および6月2日(日曜日)の2日間、「初夏の京都蘖の会」を開催いたしました。

「京都蘖(ひこばえ)の会」とは?
京都(時々滋賀)を舞台に、いわゆる「宗教二世」をはじめ、「親や親族が信じる宗教や組織により自身の生活に多大な影響を受け、問題を抱えるすべての方々」を対象にした、少人数の自助的な集いです。
(上記に当てはまれば、いわゆる「一世・二世・三世」、「元・現役」等々のカテゴリ、さらには所属していた宗派、教団問わず大歓迎です!)

京都(時々滋賀)ならではの、ちょっと贅沢なランチとプチガイドツアー。
何よりも、参加者同士がゆっくり深いコミュニケーションを取れることをいちばん大切にしています。

※コンセプト等、詳細はこちらの記事参照。
※昨年に開催した「初夏の京都蘖の会」は、こちらの記事参照

 

昨年の今頃には、もう思い出すのも嫌になるほど色々な出来事に遭い、存続の危機に瀕していた「京都蘖の会」ですが、今年はなんとも大変ありがたいことに、1回目は3名の満員御礼、2回目は2名と盛況をいただきました。

…つか、今日は何月何日よ?…オイコラ(鬼の形相)→自分w

 

前の記事から3か月以上、加えて「蘖の会」当日からも2か月ものブログ放置…。

 

当日ご参加下さったみなさまはじめ、ブログ更新を首を長くして楽しみにしてくださっているありがたい方々には長らくお待たせしてしまい、大変申し訳ありませんでした。

自分で自分を小一時間問い詰めて、自分自身で土下座して反省しているこの頃でございます…。

(「どげせん」より)

 

元来遅筆の性質に加えて、6月中は外出の用事が続き、7月には早々と夏バテで伸びて…と、腰を据えてブログを書くことができずにおりました。

…そんなみなせを怠慢だと責め立てたところで、それは「死体蹴り」にも等しい所業というものです。

 

そもそも、いわゆる「宗教二世界隈」では、「幽霊」にも等しいくらいに影の薄い身です。

 

…加えて、もうそんなに先も長くない身ですのでね。

せめて表向きだけでも優しくスルーして、安らかに彼岸へと旅立たせてやってくださいましな(^^;

 

…三途の川も「ブラックフライデー」にはセールの模様w

 

どこまで冗談で、どこまで本気か分からないくだりはさておきましても、

なにはともあれ、お待たせした分、怨念…いえいえ、こころをこめて綴らせていただきますので、よろしくお付き合いのほどお願いいたします(^^;

 

意外に便利な山科駅

 

コロナ5類移行から1年が経過し、外国人観光客も戻った…とゆーより、アホほど押し寄せてきて色々と困ったことになっている京都。

そんな事情も鑑み、今回は両回とも、待ち合わせ場所を、京都駅よりひとつ東隣の山科駅にしました。

 

 

大ターミナルである京都駅に比べ、山科駅は出入り口がひとつしかないシンプルな構造。

かつ、駅前広場もそれほど広くない。

…よって、大変にわかりやすい。

 

加えて、JRと京阪電車、京都市営地下鉄の三線が合流し、大津方面だけでなく、今回のコースである蹴上には地下鉄でわずか2駅7分。京都市中心部の烏丸御池を経由するよりも便利…と、かなり使い勝手の良い駅だったりします。

 

ランチ

 

毎回ちょっとゼータクなランチから始まる「京都蘖の会」。

今回は予約の都合上、1回目と2回目でお店とメニューが変わりました。

 

1回目:5月18日

山科駅前「ホテル山楽」さまにて、ハーフブッフェのランチ。

 

滋賀県知事にもお墨付きいただいているほど、全国的にも有名な高級和牛「近江牛」をメインディッシュに、ピザやサラダの各種オードブルに「近江牛カレー」、ソフトドリンクを好きなだけ楽しめるという、食いしん坊にはたまらないメニューに、参加者の方全員とても喜んでくださいました。

 

 

2回目:6月2日

南禅寺門前「八千代」さまにて、お庭を眺めながら湯豆腐定食。

 

修行僧の方々が日々精進料理を食される関係上、京都に限らず、歴史のある大寺院のそばには常にお豆腐屋さんが店を構えているものです。

 

寺院の「寺格」ランキングとも言うべき「京都五山」で「別格」に据えられる名刹中の名作である南禅寺もしかり。

 

京都ならではの極上の地下水がその美味しさを増し加えさせ、「南禅寺と言えばお豆腐」と呼ばれるほどに名店が建ち並んでおります。

 

その中の一軒である料理旅館「八千代」さまにて湯豆腐御膳をいただきました。

 

 

お庭の美しいお座敷で、特製のたれでいただく湯豆腐。

加えて、季節野菜の天ぷらや湯葉等、どれをとっても極上かつ絶品。

 

この日にご参加下さったおふたりは全くの初参加で、ちょっと緊張気味でしたが、「八千代」さまの美味しいお料理でぐっとリラックスしていただけました。


南禅寺水路閣

 

お腹が満ちたら、「世話人」みなせが厳選した観光コースへご案内です。

まずは南禅寺の境内を横切る、赤レンガ造りの「水路閣」。

 

 

詳細は後述しますが、1890(明治23)年、滋賀県大津市の琵琶湖から、山科盆地を経て京都市内へ至る琵琶湖疏水の完成の2年前に、京都市北部地域の灌漑用水として利用するための「疏水分線」の一部として建築されました。

 

(ちなみに「哲学の道」を流れる水の流れは、この「疏水分線」になり、京都市において唯一、南から北へ流れて行く水の流れでもあるのです。)

 

建設当時は、歴史ある名刹の境内を横切って水路を建設するのはけしからん!…と、反対もかなり強かったそうですが、古代ローマ帝国の水道橋を模した赤煉瓦の建築は、やがて京都市民の関心も引くようになり、南禅寺三門に上って工事見物する人でにぎわったのだそうです。

かくして、京都を舞台にしたドラマでも定番の風景である「水路閣」が生まれたのでした。

 

もっとも、JW二世的には、「ヨハネへの啓示(黙示録)」にて「吐き出すほどに生ぬるい」とこき下ろされた「ラオデキアの水」を思い出してしまいましてね。

 

当時もきっと同様の形の水路によって遠くより運ばれてきたわけで、すっかり「生ぬるく」なってしまったのも無理はなかったのかもしれませんね(^^;

 

日本初の水力発電所とイン・クライン(傾斜鉄道)

 

…実は「水路閣」の上を流れる疏水は、直に観ることができます。

そればかりか、(水路閣とは反対側になりますが)しばらく疏水伝いにに歩いてゆくことができます。

 

この辺りになると観光客はぐっと…どころかほとんどいなくなり、「知る人ぞ知る穴場」的な雰囲気になってきます。

疏水の水音と日差しに輝く新緑は、まさにマイナスイオンもいっぱい!

 

しばらく歩いてゆくと、ぶっとい鉄の管越しに京都市街の絶景を望むことができます。

 

実はこの鉄管の先は、日本で初めて開設された水力発電所へつながっているのです。

 

琵琶湖疏水の使用目的の一つとして「動力源」もありましたが、当初は水車利用を意図していました、


しかし、当時世界最先端だった米国の水力発電所へ視察に行き、水車の代わりに何百何千倍もの動力が得られる水力発電所を建築。

その動力により、日本初の路面電車や織物の自動化等々、京都の産業は飛躍的に向上したのでした。

 

 

また開業当初、疎水には舟も行き来し、琵琶湖を経て北陸方面への物流も担っていました。

 

疎水の終点である「蹴上船溜」は標高の高い位置にあり、京都の街中に物資を届けるためには、舟を高低差36m下の「南禅寺船溜」まで運ぶことがどうしても必要でした。

 

水の流れに従って下ることはできても、その逆は困難です。

そこで考えられたのが、レールの上を走る鉄の台車に直接舟を載せ、ケーブルカーのように電力で上り下りする、全長582mにおよぶ「インクライン」でした。

 

物流が自動車に代わった現代ではインクラインは廃止されましたが、その遺構は桜咲き乱れる散策路として親しまれており、またバーチャルで船の上り下りの様子を見ることもできます。

(疎水記念館の模型)

 

インクラインの下をくぐる「ねじりまんぽ(蹴上トンネル)」

 

上を走行していたインクラインの台車の重みに耐えられるよう、ねじった形にレンガを積み上げてありまして、こうした細かな点まで、当時の技術力の高さを肌で感じることができます。

 

新緑輝く南禅寺。
水路閣をバックに写真を撮ったり、境内を散策したり、お参りをしたり、腰掛けてゆっくり会話をしたり…。
両会とも時間の許す限り、思い思いに過ごしていただきました。

 

無鄰菴

 

このように京都の町を様々に潤した疎水は、その水の流れを利用して、美しい景観をも作りました。

その景観を楽しめる、南禅寺から徒歩約10分のところにある無鄰菴(むりんあん)へ向かいます。

 

 

「隣に何もない」を意味する無鄰菴は、明治の元勲のひとりであり、第3代第9代の内閣総理大臣(ちなみに、現在の岸田首相はちょうど100代目)を務めた山県有朋の、京都における別荘として建築されました。

 

ちなみに「無鄰菴」と呼ばれる建築物はここを含めて全国に3か所あります。

もう一つは、山県の故郷である下関市に。

もう一つは、京都市高瀬川沿いにあり、現在では日本料理「がんこ高瀬川二条苑」として、お食事を楽しむことができます。


山県の死後に京都市へ譲渡され、京都市から委託を受けた造園会社が現在管理運営を行っています。

 

「景観保全と観光の両立」を軸として、代々伝わる造園技術を駆使すると共に、時間を区切った、事前予約、定員制での入場、庭園内での人物撮影は有料の事前許可制(けっこう高額、かつ常時スタッフが立ち合う)等、かなり厳しく管理されているおかげで、いつ、だれが訪れても気持ちよく、また静かに楽しむことができます。

 

入場後、職員の方による無料のガイドは、歴史だけでなくお庭の見どころも丁寧に教えていただけて、必聴です!


生まれ故郷である長州の里山をモデルにしたかった山県は、当代の名庭師であった小川治兵衛(7代目)に山県自らリクエストを出し、高低差をそのまま生かして疎水の水で自然の流れを作り、庭園内の立ち位置によって景色が変化する…という、名庭園が出来上がったのでした。

 

2回目はあいにくのにわか雨となりましたが、雨に煙る景色もまた風流でありました。

1回目、2回目とも、散策するもよし、座敷でのんびり過ごすのも良し…と、「自由時間」として思い思いに過ごしていただきました。

 

疏水記念館

 

無鄰菴を出たのち、時間に余裕がありましたので、すぐ近くにある「琵琶湖疏水記念館」へ立ち寄りました。

 

京都市上下水道局管理の施設ということもあり、無料で疏水の歴史、また測量や工事に使用された機器など、様々な角度から琵琶湖疏水について学ぶことができます。

 

↑手に持っているのは、館内の自販機で販売されている「疏水物語」(要は水道水w)

とはいえ、30℃超えの猛暑でしたのでね。

 

キンキンに冷えている…というだけでも、これまでになかったほどに美味しい水でありました!

 

当時、井戸水頼みだった京のみやこへ、お隣滋賀県の琵琶湖から水を引くことができたらどんなに良いだろう…。

実は、平清盛や豊臣秀吉など、古来の権力者も夢見ていました。

 

しかし、「逢坂の関」に代表される険しい山を貫く水路など、当時の土木技術では到底実現することはできず、「夢のまた夢」でしかありませんでした。

 

明治初期、「東京奠都」(=天皇さんが東京へちょっとお出かけしはった、はよ帰ってきてくれなはれや)が起こり、それに伴って、天皇側近、および関係する貴族や上流階級の家々、かつ御所御用達の商店(和菓子の「虎屋」も、この時に本店を東京へ移している)や職人たちも天皇の後を追うように東京へと引っ越し、京都御所周辺は空き家に空き店舗だらけ、「狐狸の棲み処」と呼ばれるほどに没落したのでありました。

 

急速に衰退し、活気が失われつつあった京都市再生の「切り札」として計画されたのが琵琶湖疏水。

 

歴史を通じて「夢のまた夢」とされていた「琵琶湖の水」を京都へ引き込み、最先端の産業都市として再生させるための一大プロジェクトをぶち上げたのです。


当時の京都府の年間予算の2倍、京都市の予算で言えば10数年分という莫大な予算を費やし。

当時当たり前であった、外国人技師の指導を一切受けずに、測量や設計、実際の施工まですべて日本人のみで行い。

「立坑方式」といった、日本ではいまだ行われていなかった新たな工法を駆使する…。

 

 

その大事業のすべてを統括する責任者に抜擢されたのが、工部大学校(現在の東大工学部)を卒業したばかり、弱冠21歳の若者だった田辺朔朗

 

 

千年のみやこ京都を再生をかけた「希望の水路」を、それまでの常識にとらわれず、若き才能を見抜いて大抜擢してすべてを任せる…。

 

京都人は伝統を大切にする反面、「新しもの好き」な一面もあり、例えば東海道の終点である三条通りには数多くのモダンな洋館建築が早くから建ち並んだり、パンや牛肉などの洋食文化にも早くから親しんでおりました。

 

こうしたところにも、京都人の「進取の気性」を感じ取ることができます。
かくして明治23年に竣工した「第一疏水」の竣工式には明治天皇も列席され、いかにこの琵琶湖疏水が京都のみならず、国家的な一大プロジェクトだったのかがわかります。

 

後年に開通した「第二疏水」により、新たな発電所の建設等さらなる利用が進み、例えば「日本最初の市内電車」や、「ジャガード織機」に代表されるような工場の解説による産業の活発化により、明治から大正時代にかけての京都市は、日本最先端の産業都市として見事に復活を遂げたのでした。

 

…だからこそ、「琵琶湖の水止めたろか」(by滋賀県人)の殺し文句も、力を帯びてくるものなのですねー(笑)

 

↓詳しくお知りになりたい方はこちらの動画をどうぞ。

色々観た中で、いちばんよくまとまっていて、大変わかりやすいです♪

 

こうして、「琵琶湖疏水」で結んだ「初夏の京都蘖の会」の一日が終了したのでした。

 

参加者の方々の声(抜粋)

 

工業系出身というのもあって産業の歴史は大好きですので、疏水記念館に行けたのもありがたかったです。

今回ご一緒させていただいた方も話しやすい方で、宗教二世の集まりというのを忘れそうなぐらい楽しかったです

(男性:神道系新宗教2世)

今回は別の宗教の方の話を聞けたのが、何よりもいい経験になりました。

外から見て、JWがどう見えてるのか…。

(他宗の方なりに)JWの事を色々理解しようとして下さっていたのがとても嬉しかったです。(女性:JW2世)

元JWの方々と初めてお話しましたが、思ったよりたくさんのお話を聴けましたし、自分自身も話すことができ、自分でも驚きました(女性:JW2世)

 

「しばしの止まり木」のひとつとして

 

安倍元総理の銃撃事件をきっかけに、いわゆる「宗教二世問題」が社会の注目を集めて以来、当事者のみならず、「支援」を謳う多くの個人や団体がせわしなく動き回り、「宗教二世」当事者たちも様々に翻弄される…という状況下、「京都蘖の会」も7年目を迎えました。

 

それまで「ただ一つの正しい答え」、「ただ一つの正しい教え」に縛られていた「宗教二世」当事者たちが、それまでの生育環境や人間関係、思考、行動パターンをどう捉え直し、どのように自身の人生を作り直してゆくのか…

また、周囲の人間は彼らにどんな支援をしてゆけるのか…。

 

その答えは「宗教二世」ひとりひとりの中に、そう、その数だけあります。
いわゆる「オフ会」と呼ばれる、当事者同士の集まりも規模の大小を問わず数多くあり、「蘖の会」もそのひとつにすぎない。

 

…もっと言うなら、「オフ会」そのものも、数多くある「答え」のひとつ、「二世」各個人が自分なりの人生へそれぞれ羽ばたいてゆく過程のひとつに過ぎません。


「二世」当事者たちが自身にフィットした形態の支援を選び、そうして自身が本当に望む人生へと飛び立ってゆけるのであれば、それが何よりなのです。

その上で、選択肢が多いことは大変に良いことなのです。

 

たとえば「支援」の皮を被りつつ、実際には私腹を肥やすべく「二世」たちを食い物にするとか。

たとえば「一世二世」等「カテゴリ」分けして憎しみを煽るとか。

そんなゴミクズのような人間に、勝ち目がなくても(つか、まるで相手にされないw)噛みついてしまうとか…。

 

「宗教二世」界隈をけん引する人々の中にあって、まるでお話にならないほどに、みなせは無学で不器用でがんこです。

 

…でも、「それでもいい」と。

「蘖の会が、みなせがいい!」と感じて下さり、ご一緒してくださる方が一人でもいて下さるのであれば、今後も「蘖の会」と継続する価値があるというものです。

 

いわゆる「二世・一世」、さらには所属していた宗派や団体に関わらず、目の前にいる「その人自身」を大切にしっかりかかわり、しっかりとつながりを作る…。

 

どんな時も、だれに対しても、「蘖の会」という「しばしの止まり木」のひとつを守る者として、ひとりひとり大切にかかわって参りたいと思います。


華やかさはありませんが、細く長く、丁寧に、ひとりひとりとの「つながり」を紡いでまいります。

 

次回「初秋の京都蘖の会」は8月下旬~9月上旬の土、日曜日に開催。

7月30日(火曜日)付の拙ブログにて告知いたします。

(早く計画しなくちゃ^^;)

 

京都市へ「ふるさと納税」して、疎水遊覧船に乗るのはいかが?