「ずっ友」という言葉を初めて耳にしたのはいつだったかしら。
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いつも不思議に思うのですが、流行り言葉というものは一体どこから湧いてくるのでしょうか。
「湧いて出てくる」なんて書き方をしましたが、別に批判をしたいのではありません。「真面目」が語源の「マジ」という言葉だって、最初は流行り言葉だったろうに、今やすっかり定着しています。時代の淘汰を勝ち抜けば、流行り言葉も流行りではなくなるのだから、批判は意味がないと思います。
でも、流行り言葉が出始めの頃、これは正に「湧いて出てくる」の表現がピッタリだと前から感じていました。気が付いたら、うじゃうじゃうじゃっとその言葉を使う若者が一定数います。それは別に地域に限ったわけでもなく多分日本全国でそうなっていて、一体どこの誰が最初にその言葉を使い始めたのか、皆目見当がつきません。今はSNSが当たり前の時代だから、SNSが流通経路というのはうなずける話ですが、SNSが台頭する前から流行り言葉はありましたよね。
「ずっ友」という言葉を始めて聞いたのは、いつだったでしょうか。わたしが高校生の時にはまだなかった言葉です。ここ数年でしょうか、カジュアルに耳にするようになったのは。あ、わたしは使っていませんが、ずっ友。33歳のこの年で「ずっ友」というワードを口にする勇気はありません。
あ、一応説明を添えておきますね。「ずっ友」とは、「ずっと友達」の意かと思われます。「わたしはあなたとこの先もずっと友達だよ」という熱い友情を指して、「ずっ友」と呼ぶのでしょう、多分。完全に蛇足ですねこの説明。すみません。
ずっ友。
もしわたしが今、高校生か中学生で、特別仲の良い友達がいたとして、果たしてその友達は「ずっ友」でしょうか。自分の性格からして、口に出して「ずっ友だよ!」と言ったりはしなかったと思います。むしろ、わたしは若い頃からまるで口うるさいおばあさんのように、人の言葉遣いに目を光らせているタイプでした。大学を卒業したての体育教師に「先生、今のは『ら抜き言葉』ですよ」と指摘するようにイヤな生徒でした。あ、思い出したらめっちゃ恥ずかしい。死にたい。
では、「ずっ友」と口に出して言わないとしても、こころのうちで「この子は『ずっ友』だな」と密かに思う可能性はあったでしょうか。
んー……多分、思わなかっただろうな。「ずっ友」という言葉がどうこう以前に、「ずっと友達でいる」という考え方に、あまり共感できないからかもしれません。いえ、友達の存在はありがたいし、もし友達がいなかったら、わたしの人生はこんなに豊かではありませんでした。それは確実に。でも、「ずっと友達でいる」という感覚は、わたしにはありません。もしも「ずっと友達」という言葉を使うのならば、それはいつでも語尾に「だった」を付けたいと思います。
「ずっ友だった」と。
「ずっ友」という言葉は、まだ訪れていない未来を指したものです。今日で卒業してあたし達離れ離れになるけど、それでもずっと友達だからね! という未来への約束、それが「ずっ友」という言葉の意味するところです。多分、ですが。
それほどまでに自分たちの友情に自信があるのは、すごいことです。わたしは未だかつて、友情であれ愛情があれ、そこまで強く自分の想いに自信が持てたことはありません。感情は形がないから、途中で変わるかもしれないし、悲しいけれど気持ちが離れることも、十分考えられます。わたしが極端に怖がり
だというのもありますが。
だから、未来もこの友情は変わらないという想いを込めた「ずっ友」という言葉は到底使うことができないし、本当はこんな言葉をちゃんと使える人間なんてどれくらい、いるのかしらと思ってしまいます。でも、先ほども書いたように、少し使い方を変えるなら、わたしにも言えそうです。
「出会ってから18年だけど、なんだかんだで我々ずっ友だったね」と。
すでに月日を積み重ねてきた友情になら、こんなわたしでも自信が持てます。長い間、友情が途切れなかったという実績に対してなら、胸を張ることができます。
とても幸運なことに、そういう意味で言うならわたしには何人か「ずっ友」がいます。何年も会っていなくても、お互いの環境が変わっても、少し言葉を交わせば昔に戻れる「ずっ友」が。
今度、彼らに再び会ったら、試しに言ってみようかしら。
「我々、なんだかんだで、ずっ友だったね」と。
多分全員、「やだ、安達33歳のくせに気持ち悪い」って顔をしかめるとは思いますが。