「臨書」とは?
「古典の上手な学び方‐もう古典臨書は怖くない‼」
墨1995 10月臨時増刊 芸術新文書
《臨書への提言》
(行者的習熟に喜びがある 稲村雲洞)
(臨書そのものに没頭する楽しさ 高木聖鶴)
(書の天才の筆跡に人間の偉大さを見る 戸田提山)
(古典は自分の書作を測る物差し 成瀬映山)
(原本に忠実に臨書することが第一 伏見冲敬)
(形よりも「生きた線」を学ぶ 宮本竹逕)
「臨書」の魅力やなぜするのかが書かれています。
「臨書のすすめ 手島右卿臨」
日貿出版社 昭和61年
《臨書とは何か》
臨書は一口でいえば、手本を見ながら書を書くこと、また、そうして書いた書と言えます。
書を初めて習う人はまず臨書から始めます。何故かといいますと、臨書は「描法をつくっていく土台、絵におけるデッサンのようなもの」(手島先生)だからです。
したがって、臨書のための手本は良い書でなくてはなりません。
特に中国の古典は、情緒、情操、意趣を表すことにおいて優れた伝統を持ち、「書は心画なり」「字を写すものは心を写すなり」「意は書の本(もと)なり」「心の手が情に達する」などの言葉を今日に伝えています。畢竟、〝書は人なり〟といえます。
このように考えますと、臨書はただ単に書の形態ー文字の形、筆の緩急、上げ下ろし、乾湿、濃淡、軽重ーなどを写すのみでなく、さらにすすんで筆者の心(筆意)を写すものであるといえます。すなわち、「筆意活動であり、古典の勉強を通して筆意というものを身につけて腹に入れていく勉強です。したがって、高度の臨書活動というのは創作活動に繋がっていく」(手島先生)ことになります。
その究極の目的は、自分の力で良い書を書けるようになることにあります。
《臨書の方法》
●絶対のものとして再現する
臨書は初めは真蹟類類でやるようにします。
(中略)
ただし、間違わないように誰かに見てもらうようにしてください。
●好き嫌いをしないこと
●筆意活動
原本を絶対的なものととして再現することを積み重ねていき、ある程度できるようになったら次は筆意をくみ取り腹に入れていく勉強をします。
前記のように、「高度な臨書活動というのは創作活動に繋がっていく」のです。
(後略)
臨書のすすめ
(前略)
白い紙に墨で書くそのすばらしさを知り、古典によって字の筆法や構成をを知り、字が上手になれば、どれほど日々が潤いあるものとなり、豊かになるかもしれません。
王羲之「蘭亭叙」
空海「金剛般若経開題」
顔真卿「輩将軍詩」上田桑鳩臨
橘逸勢「伊都内親王願文」手島右卿臨
上2枚は自主練習、下2枚はお稽古の予習と復習です。
自分の力で良い書を書けるように臨書しています。