【22】「金に支配されない犯罪の理由」 プロフェッショナルとしての本格犯罪【連載】 | a.k.a.“工藤明男” プロデュース「不良の花道 ~ワルバナ~」運営事務局

毛沢東
<中華人民共和国の初代主席であり、文化大革命を起こした毛沢東(画像はWikipediaより)>


■金品を目的としない犯罪の論理

 これまで取り上げた暴力団(極道)も過激派(革命組織)も、彼らの仕事は金品が目的ではない独自の論理(とても倫理とはいえないけど)に支えられていた。

 極道の場合は任侠の道を極める、ないしは義理と人情に則って人としての道筋を通す、いわば生き方そのものが目的化されていた。


 共産主義者の革命家(過激派)の場合には、これも思想に支えられているので生き方は大いに問題となるところだが、革命という大目的にしたがった戦術は、まるで手段を問わない。

 目的が手段を浄化するということになるのだから、彼らの原理でいうブルジョア法に定められた犯罪は厭わないのである。


 いずれにせよ生き方というか、ぶちあげる行動においては派手なほうがよろしいということになるのだけれども、とくに左翼の過激派の場合には、手段としての暴力革命が、目的である人民の意識改革や社会変革にとって有効とされるので、暴力自体が目的化されるケースが多い。



■秩序の破壊は暴力からしか生まれないのか?

 毛沢東の言葉に、銃口から政権が生まれるというのがある。革命は軍事力によるのだという意味とともに、現存するイデオロギーの支配から自由になるには、暴力によって旧制度と旧秩序が破壊されなければならないという、かつての文化大革命の基盤となった考え方である。

 80年代以降、毛沢東が主唱した文化大革命は非難されるばかりの状況だが、じつはマルクスも同じようなことを言っている。

「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」(共産党宣言)。

マルクス
<資本主義社会の研究から共産主義の到来を説き、革命思想であるマルクス主義を打ち立てた思想家、カール・マルクス(画像はWikipediaより)>




■突出した暴力による周囲の評価が目的と化す

 革命組織にとっての暴力の発動の原理はそれだけではない。

 分立する多くのグループの中で、突出した行動が他のグループの評価を得て同調ないしは路線変更をうながしたり、新たな参加者を獲得することになれば、暴力を駆使した戦術は成功なのである。

 これが権力を持たずに理論から出発せざるをえない革命勢力の理論主義である。


 いっぽうの極道組織にとっても、派手な出入りや暴力行使は組織の実力を業界に認めさせるという点で、手段そのものが目的化される場合は多い。70年代の極道組織の抗争と左翼の内ゲバは、その意味ではほとんど同じ位相にあったといえよう。


 共通しているのは、面子と衿持が支配する世界では、金品が目的ではないということなのだ。



■それでは極道や革命運動家は“犯罪のプロ”なのか?

 かように、金品を目的としない仕事も成り立つのだが、じつは犯罪のプロフェッショナルという意味では、彼らのレベルはアマチュアなのである。ここで本来のプロフェッショナルの仕事は自分の技量を対価に売る傭兵なのだという、(3)「個人営業の“戦争のプロ”から紐解く」で記した定義を思い出していただきたい。


 極道として生きる人が義理を果たすために鉄砲玉になるのは業界の仁義にしたがった拘束性であって、出所して組織が残っていない場合も少なくはない。箔をつけるという彼の思惑はともかく、確実な利益や損得を考慮しないのでは、とてもプロとは言えないのだ。

 共産主義革命運動に身を投じるのは元々がボランティアなのだから、どれだけ技量が優れていたとしても、犯罪のプロとは言いがたい。


■犯罪のプロが存在するのは可能か不可能か

 それでは犯罪のプロとは、実際に可能なのだろうか。

 プロに近いと思える任侠道の人々や革命家の仕事を概観してきたが、プロフェッショナルの仕事の成否は、本来の目的である金品の奪取よりも、計画どおりに運んだかどうかに絞られるというテーゼは、こうしてみると少しばかり破綻をきたすのである。


 仕事の報酬や利益率を考慮してみると、金品に支配されない犯罪者というのは、職業としての原理が頼りない。ここまできて、ふたたび迷路にまよった感がある。次回からは具体的に、プロフェッショナルの犯罪者群像を分析することにしよう。(続く)

(作家 横山茂彦)