自然そのものに対しての畏怖を思い知らされて、「科学は無力だ」と書いたことがある。
ライフラインが全て絶たれ、親類とも連絡が取れなかったあの時に感じた無力さは、何年経っても忘れる事はないし、今同じような状況に陥った時に、どんな選択を取るか、そこに対しては澱みなく進むべき道を進んでいると自分自身思えるだけ、少しは学んだのだろうと思う。
海の見えなくなった町。
震災復興という名目で消えていった莫大な税金。
電気料金高騰を引き合いに出して、女川原発の再稼働を進めようとしているこの町の首長。
原子力発電という科学に対して、賛成か反対か、簡単には言えないのは、自分自身が既存のシステムに依存せざるを得ない暮らし方をしているから、常にそのシステムに否が応でも加担している自分の暮らし方の問題が大きい。
六十年もった原発が世界に一つも無いのは、人間が原子力を使うようになってまだ浅いという事もあるが、先の震災で大丈夫な建物だったから、次来ても大丈夫、という安易な発想にはなれない。
科学の発展には大いに期待するとともに、今の状況を鑑みると、反対的な立場を取らざるを得ない。
山に居をかまえようとしているのは、この国や世界が抱えている根本的な問題を解決するには個々のエネルギーや食料の自給率を高めるしかないだろうという考えからです。
自宅にスタジオを作る事も根本的には同じです。
世の中がどうなろうと、生きていかなくてはならない。
止まらない電気、止まらない水、止まらない熱源が既存のシステムに頼らず構築出来るなら、そこに対して十年や二十年の年月をかけてもいいと思えたから、ウッドショックの煽りも受けつつ、のろまなまんま、コツコツと進めています。
ブラウン管のTVが寝てるところに落ちてきて、猿股のまんまアパートを飛び出して、大粒の雪が降る中空を見上げた時に感じた、得体の知れない何か。
今思い返すと、妙な昂揚感みたいな感覚、人間の根源にある、生に対する執着心かもしれない。
生きながら死んでるような浅はかさの中で、息をしてる実感がそこにはあった。
真夜中に一人で山奥にいると、今でもときどき感じる事がある。
その怖さみたいなものを感じると、途轍もなく人に会いたくなる。
誰かに優しくされたいし、優しくしたい!みたいな気持ち。
そういう気持ちを時々思い出したくなるんだと思う。
震災で亡くなったいとこの姉ちゃんの息子は16歳。
今年から宮城の学校に通うそうです。
優しい良い子に育ってますよ。
天国のみんなにラブを!
LIVE information
3/24(金)札幌市円山夜想ワンマン
3/25(土)北海道伊達市 だて歴史の杜カルチャーセンター
4/9(日)仙台FLYINGSON(合奏)
4/21(金)名古屋金山ブラジルコーヒー
4/22(土)大阪雲州堂
4/28(金)下北沢440
詳細、ご予約はこちら