口から滑り落ちた言葉は聞いた人の心に留まる。
誰かの、「心からの優しさ」を湛えた美しい言葉で胸がいっぱいに満ちたときは、同じように自分も誰かにそれを手渡したくなる。
口の先だけで捻り出した嘘みたいな優しさは、どこにも浸透せずに消えてしまうから、そういう音が鳴る場所には行かない。
不満や欺瞞や、つまらない言葉だけの議論がなされる場所にも居ない。そっと離れればいい。
自分が両眼で見ているものが世界なのであって、そのTPS視点の物語は、誰にも見せることが出来ない。
好きではないものを見て文句を言うのは無駄で、好きなものについて語る事にのみ時間を割いていたい。
見なければいけないものなど無いし、この世界の惨状をいつも目や耳から脳味噌に入れ続けたら、人間は壊れる。
好きなものを見て、感じて、それを大切にしていけばいい。
それらは時々優しさでもって返してくれる。
それでも時々入ってくる世界に対して、自分なりに出来ることがあるならしていけばいい。
何でも首を突っ込み、困った人がいたら声をかけ、金を貸し、飯を食わせ、病院に連れて行き、よくよく話を聞けばいい。
ボランティアで歌などを歌ってお金を集めて渡すなどすればいい。
だけどそれがその人たちのためになったかどうかは、自分には分からない。
感謝などされる事はないと思ってやった方がいい。
どの経験も、社会を知って自分を形作っていく一つの要素だ。
好きな人、好きなもの、好きな事、好きな場所があるといい。
どの道を歩いたらいいか時々教えてくれるかもしれない。
それらと共に歩く為に、初めて自己犠牲を知るかもしれない。
心の中に誰かから授かった淀みのようなものを抱えて、歩いている。
下ろしたら楽かもしれないが、理解が足りていない気がして、いつまでも持って歩いている。
何年経っても考える。
彼や彼女は想像も出来ない苦しさの中に居るかもしれない。
私がそうであるように。
「かもしれない」が行き過ぎて決めつけになってるかもしれない。
誰かの為になりたいという無力な私の側に、一つの道が続いている。
その道の途中、枝分かれした交差点で、誰かの背中に手を振って、別の道を行く。
どこまで続いているか、気になった方に向かって歩いている。
また知らない誰かと出会って、立ち噺に花が咲いたりしている。
表すると現れるその花の実体がなんたるか、それを具に観察して書き留める。
それがおかしくていつまでもやっているのだから相当タチが悪い。