自分には分からないんだという事を | KUDANZササキゲン「散文と音楽」

KUDANZササキゲン「散文と音楽」

ササキゲンのソロプロジェクト KUDANZ(クダンズ)の日記


例えば、「これ美味しいね?」と訊かれたとして、「あんまり好きじゃない」と答える事は憚れる。

自分としては敵意も嫌悪も他意もなく、思った気持ちをそのまま伝えたいのだけど、なんとも言いにくい。

そういう時に、これが社会というものなのだと感じる、という話を、馴染みの美容院で髪を切られながら話した。

「そうだね、美味しいね」というのが、その場合ある種正解な事もよく分かっていながら、それがどうにも出来ない、という人達を何人か知っていて、僕の髪を長年切ってくれている彼女もそうだ。

かくいう僕自身も同じで、その性分でだいぶ人付き合いに波風を立ててきたような所が幾らかあるけれども、必ずしも昔からそうだったわけではない。

むしろ幼少期から青年期にかけての自分はというと、人に合わせるタイプで、それというのは詰まるところ、人に嫌われる事を極端に怖がって生きていたからだと思う。

そういった選択肢が訪れた際に、合わせる事、合わせない事という、そもそも自分の心の中にある本当の気持ちを知りながら、選択肢として捉え続けた結果、知らず知らずのうちに、心の中に澱のようなものが溜まっていき、それが次第に本当の気持ちというものを押し潰そうとしている事に気づいて、人生のどこかでプツンと切れたのだと思う。


それ以来、思ったまま話すようになったが、元来合わせる事で繋がっていたコミュニティが、今度は相手方にとって途端に現れた正直さというものが受け入れがたく、それまでの関係性が壊れる、みたいな事が変換期によくあった。


人間関係というのは編み物に似ていて、何処かで編み込む場所を間違えると、気づいた時にその場所まで戻らないと、どんどんとズレていくのだ。

それが二本の毛糸ならまだ良いが、何本もの毛糸で幾重にも折り重なっている場合、それをほぐして

やり直す事は、それまで積み上げてきた時間を遡らなくてはならないし、毛糸にはそれぞれ独特のクセが生じていて、本当に根気のいる修復作業になるだろう。

誰だって波風立てたくて生きているわけじゃない。

だけど、本当に不思議なほどに、自分の心の奥底にあるものから目を背けて、他者に合わせて生きると、気づいた時には自分が望まない場所に立たされている。

それが社会というものなのだという実感が自分にはある。

伝え方の大事さも少しずつ知っていった。

理解にはいつも寛容さが横たわっている。

だけど、安易な寛容さに重きを置けば、今度は自分から遠ざかっていく。

「想像」

こんな使い古された言葉の難しさに、いつも苦しんでいる。

他者の心という実像のないものに思いを馳せ、その実像を自分の中で形作る。

想という字は、互いの心という体を表している。

だから言葉を知る物書きは、後から生まれたこの「想う」という字は使わない。

僕は使う。


僕の知人には宗教2世の人間が何人かいる。

信仰を続ける人、入会しなかった人、脱会して自分の人生を歩んでいる人。

傍目から見ていて感じる事は、信仰の中にいる者というのは、修行する立場にある為、他者に、もっと言えば同じ信仰のないものに対してその苦しみを吐露する事はまず無い。

その「道」に入るというのはそういう事だからだ。

だからこそ、中にいる人間の気持ちを、外の人間が理解する事は難しい。

同じ街並みを歩いているそれぞれの人達が、心の中でそれぞれの道を歩いている。


だから、入会しなかった人や、脱会した人達の苦しみに対しては、我々はどこか感情移入しやすいのだろう。

例えば信仰を持つ者としては、自分が幼少期から当たり前のように共に過ごしてきた親を、何も知らない他者が否定するような感覚に近いのだろうと思う。

歳を重ねるたびにそれは強固なものとなる。


幾つかの選択肢が選べるのなら良いが、国道を走っている車から抜け出すための獣道は見えない。


とある宗教を脱会して社会復帰しだいぶ経つ友人と飲んだ夜、居酒屋で話していた時に、友人が最近見た本で、地球は2種類の宇宙人の血を引いた者たちに分かれていて、我々はこっち側で、こういう考えの人達はあっち側だから、人とコミュニケーションを取った時に、この人はあっち側の人間なんだと思うと楽に考えられるようになった。

かなり要約しているが、そう言われて、自分は答えに詰まった。

詰まりながらも、伝えた事は、なにかを信じるという事はそれぞれの自由だけれど、あっち側とこっち側、敵と味方みたいに、他者に対してレッテルを貼るような考え方は俺は好きじゃない。

そうはっきりと伝えた。

友人は熱くなり、本で読んだ事、自分が感じた色々な事を僕に説明してくれたが、何故だかその全てが悲しく感じ、何を話しても仕方のない感情が押し寄せた。

それでもその日はなんとかお互い穏やかに収めてそれぞれの家に帰った。

帰ってから彼が言うその言説を調べてみたりもした。


そのあとも、全く別の友人にもらったキリストに関する本を読んだりしながら、日々のニュースを目にしたりする中で、頭の中を沢山整理する日々が続いた。


その時彼に伝えたかった事を、毎日毎日ずっとずっと考えていたんだけど、今それが何となく整理がついてきた気がして、これを書いている。


僕は何か特定の宗教を信じているわけではないけれど、ご飯は左、味噌汁は右、箸は右から左、戴きます、ご馳走様。当たり前のように仏教の教えが日常の中に溢れている中で育ってきた人間だ。

この国に生きる多くの人たちが、無意識のうちに大きな括りとしての仏教徒であると言える。

寺でニ拍三礼はしない、くらいの事はなんとなく分かっている程度の、宗教として意識はしていない程度の、根底にあるもの。それを踏まえた上で、その居酒屋で僕が悲しかった事は、せっかく死にそうな思いをして抜け出した地獄があって、抜け出した後も辛くて、その中で見つけた何かは、結局目に見えないもので何かと何かを分断したり、善い血、悪い血とする考えなのだったら、それって、結局君がいた元の世界と同じじゃないか。って、悲しくなった。


こっち側って、僕と君がいるのは同じなのかい?

僕は同じだと思った事はない。似た所があると思った事はあるけれど、僕も君も、それ以外の人達も、みんなそれぞれ、全然、違うんだ。

ほんとうにみんな、似たような振りをしているだけで、ほんとうは全然それぞれ違うんだ。

合わせられる人と、そうじゃない人、我慢できる人、出来ない人。

みんな等しくこの世界で何とか毎日生きている。


それで、いいじゃないか。


良い人間と悪い人間が血によって決まっているわけじゃない。

生まれと環境と個性が混じり合って、それぞれの中に善い行いと悪い行いがある。

簡単に、良い人間だとか悪い人間だとか、たった少しの側面だけを見て、人を決めてかかる考えは、僕は悲しい。

地獄を抜け出した君と沢山の会話を経て、僕は君の友達になりたいと思った。

良いところ、悪いところ、直せるところ、治せない傷、色んなものを抱えて、皆何かにすがって生きている。

僕は愛する人達と、音楽と、自然にすがって生きている。


生きる事は苦しいね。本当に苦しいね。

だけど、僕は君の友達でいたいと、出会った時から思っている。

互いにサタンだろうが、罪人だろうが、宇宙人だろうが。

ただ、君の事を嫌いになりたくないから、思っている事を伝えないといけない。

怒ってるんじゃないんだ。

自分らしくいる事が、とても難しいからこそ、他者の前でもそうしなくてはいつか回り回ってその相手を傷つけることになる事を知っているから。


何かを信じる、誰かを信じるという事は、危険を孕んでいると思う。

これは何も宗教だけに限った話ではなく、政治も、衣食住音楽ありとあらゆるものに対して言える事かもしれない。


僕にとっては、会ったことも話した事もない誰かの本や言葉よりも、自分を大切にしてくれる人達の言葉や心の方がなによりも大切です。

大切にしてくれない人の言葉はそこそこに聞いておけばいいと思います。


愛とか信じるとか、この世の中に沢山溢れてる。

すげぇ、気持ち悪いよ。

愛とか信じるって言葉は、人を自分の求める形に束縛したりする為に沢山使われるようになったから。


みるって言葉には色んな漢字と感じ、意味がある。

みてようよ。みてるよ。人同士、そのくらいがいい。


美しいこの世界を見た話、素敵な人に出会った話、またいつか出来るといいね。


こないだ定義に向かう途中の車で、徹子の部屋に美輪明宏が出てて、美輪さんが「人間関係は腹六分目」って言ってて、六分目かぁ、俺全然ダメだなぁと思った。

人と人って実は、話せば話すほど分かり合えないって、分かっていながらいつもやっちゃうんだよなって、いい言葉だなぁって心に留めておきました。

最高の化け物二人だったなぁ。


信じるって言葉気持ち悪いって言ったけど、信じてるものはあるよ。信じてる人も少しいるよ。

信じてる、なんてクソ寒い事は言わないけどね。


「変わりたいと思えば、人は変われる」

これは信じてるし、自分自身の実感として少しだけあります。

もっともっと、変わらないといけないけどね。


本当にいろんな人たちがいて、みなそれぞれ言葉に出来ないだけなんだということを、お互いに感じながら過ごせたらいいなと思います。



日付が変わって明日10/15(土)は地元盛岡にて3年ぶりのライブ。ワンマンです。



寺でやります。楽しみ。

岩手の皆さん新しい歌持ってきますのでよろしくです。


それではまた。



*追記

あなたが何かを信仰している場合、それがあなたと、あなたのまわりにいる大切な人達が穏やかに生きられる教えであり、鎖となりませんように。

金や地位や名誉や搾取の中にあらず、あなた自身の中に気づきを与えるものでありますように願っています。