物を捨てるという事 | KUDANZササキゲン「散文と音楽」

KUDANZササキゲン「散文と音楽」

ササキゲンのソロプロジェクト KUDANZ(クダンズ)の日記

先日、とある山奥で密かに行われたキャンプイベントにお呼ばれして、歌を歌ってきた。

素晴らしい場所、素晴らしい人たちで、会ったこともない人たちだったが、疎外感を感じる事もなく、暖かく迎えてくださり、なにより夜遅くまで小さな子供たちが走り回る姿を見て、幼少期の頃を思い出し、昨今の他人の目を気にしすぎる息苦しい雰囲気とはかけ離れた、自分の幼少期の頃と同じような時間の流れに身を任せて、歌を歌い、酒を飲んだ。

自分が理想とするような空気がそこには確かにあったし、大きくしようとするほどに弊害となるものが増えていくような歯痒さもそこにはあった。


夜遅く、私達が布団についても、深夜2時か3時くらいまで、みんなが歌う声が聞こえていた。

遠く、何のゆかりもない地だったけど、そこに集まるお互いに顔も知らない人たちの作る一夏の空気に、間違いなく生きる力をもらった。


翌日は酒が残っていたので、運転の事を考えゆっくりと目を覚まし、沢水の湯に浸かり、前日の残りもうまく合わせて作られた素晴らしいブランチを頂いて、洗い物をして、皆に挨拶を済ませてそのキャンプ場を後にした。

帰りしなに幾つかの渓流を釣りして回り、帰ってから、妻がウィンドブレーカーを忘れた事に気づいた。


そのウィンドブレーカーは三、四年着たもので、防水ということで購入したものだったけど、買ってまもなく防水機能は損なわれ、それでも都度都度防水スプレーをふりながら使用してきたものだが、安物買いの銭失いという代物で、山で雨に打たれるたびにずぶ濡れになってしまうので、そろそろちゃんとしたものを用意しようという話をしていた。数日過ごす山に於いては、上着の撥水性は命を左右するからだ。


翌日になって、お世話になったイベントの関係者の方から、謝辞と共に、上着を忘れてませんか?と連絡を頂き、確かに私たちの物ですと伝えた。


この時私の中には、日中仕事をしながら今回のイベントを準備する大変さを飲みながら話していたその方の話を思い返していて、今もまさに片付けや残務処理に追われているであろう事を思い、少し悩んだが、かなりへたってきていたので、破棄して頂いても構わない旨をお伝えした。


その方は、使えるものを捨てるのはもったいないのでお送りしますと返信をくださり、謝辞と共に住所を伝えた。


確かにその方の言う通り、防水の機能はとうに損なわれているとはいえ、まだ十分使えるものだった。

今まで自分は、少なからず物を大切に使ってきたはずなのに、何故軽々しくも捨てて頂いても構いませんなどと送ったのだろうか。

本当にその方の気持ちを考えるのであれば、忙しさ云々もそうだが、それよりも、その方が、物をとても大切にする人であることを察する事が出来たのではないか、そう思い、自分の浅はかさを恥ずかしく思った。

防水の機能は損なわれたとしても、まだ役割は残っているはずだ。


物を持たざる時代に、ありとあらゆる廉価なものが溢れているけれど、一度手にしたのであれば、しっかりと最後まで使い、捨てるときは自分の手で捨てるべきだと思った。


奥定義舎を始めてから、大きな家の中にそのままにされた荷物を一年かけて処理した。

4トントラック何台分だか分からない。

まだ使えるものも、悩みながら捨てる事を選んだ。

残しているものも沢山あるし、その取捨選択が正しいか間違っているかは分からない。

時間も、置いておくスペースも、様々な理由があってそれらは全て自ら決断してきた事だ。

でもそれは誰かが放棄したものであり、自分が買ったものではない。

どこか、誰かの置き土産を火に焚べる毎日の中で、物に対する価値であったり、大切さを失っていたのだと思った。


その方が私の浅はかな言葉でどんな気持ちになったか、私は分からないけれど、もしまた会うことがあれば、今回の事を直接詫びたいと思う。

昔から穿いているパンツも靴下も、手縫いして使っている物への思いも含めて、今までの自分を失ってしまうような選択だったように思う。


だけど、こうして新しく誰かに出会い、何かに気付く事は、これからの自分にとって、とても大事な事だと思うから、恥ずかしい事だけどここに残しておきたいと思う。