土岐頼芸と斉藤道三 二人の運命を分けた「大桑城」  令和2年5月 | Chajinの 徒然フォトブログ

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濃尾平野の北の端に位置する山県市大桑(おおが)、大桑城は407mの古城山の山頂

一帯にありました。

ふもとの柏野(かやの)地区の城下町跡。

大永5年(1525)、長井新左衛門(斉藤道三の父)等が頼芸の兄の美濃守護・頼武を

クーデターにより追い落とした後、頼芸が土岐家の家督を継承した。

頼芸は長良に居館を置いたが天文4年(1535)に長良川大洪水で甚大な被害が出たため

本拠地を大桑城へ移したと伝わる。天文8年(1539)に斉藤道三は稲葉山城改修と城下町の

建設に着手したとされ、時を同じくして大桑城で城と町の建設を始めた。大桑城は美濃国

最大の規模を誇る山城であったと伝わる。

 


 

 

 
土岐家桔梗紋
 
天文12年(1543)の戦いは斉藤道三が大桑城にいた土岐頼純派の勢力を駆逐すると
ともに守護頼芸が持つ道三からの独立を目指すのを排除するためと考えらている。
江戸時代に建てられた戦死六万墓碑には天文11年(1542)と記され、
戦いの後に南泉寺住職の仁岫宗寿が焼香を行ったと記されています。
(年記載異なりあり) 
 
最近の発掘では300体余であったようです。

 
六万墓の近くにあって現在も残る100mほどの「四国堀跡」。 城下町の入り口部には
四国堀のほか「越前堀」と呼ばれる様式も残されていて、他国との関係を伺わせる
地名が残る。
 
 
大桑城へ登るのには車で進める林道があり、駐車場から30分ほどの登山で城跡へ
訪れることができます。「麒麟がくる」の放映に合わせて登山道も整備されていました。

 
まず訪れたのが切り出し井戸、中学生の頃見たそのまま、水を湛えていました。
頼芸が落城時金鶏の置物をこの井戸に隠して逃れたと伝わることから
この城山を「金鶏山」とも呼んでいました。

 
大桑に住む子供は誰でも一度はこの山に登ったと思いますが、山麓から登って
この井戸の横を通った記憶があります。

 
井戸の近くに残る石垣跡。

 
崩れた石垣も。

 
井戸の少し上には台所跡と伝わる広場。


 




 
土岐頼芸城址碑。 裏には数藤鐵臣岐阜県知事(1941~1942)と
松尾國松岐阜市長(1926~1945)の名前が彫られていました。
 
 
407mの古城山頂上。
 

 

 
曇り模様でしたが頂上から真下に私が生まれ育った集落。一番遠方の山が金華山。
 
 
望遠でぼんやり金華山、岐阜城。
頼芸はどのような思いで稲葉山城を望んでいたことでしょう。
 
 
南泉寺。屋根瓦がふき替えられ、土塀も新しく塗り替え、改修工事中でした。
南泉寺で長良川の戦い前、道三が信長に宛て美濃の国を譲る旨、文を認めたとされます。
 
 
南泉寺に残る頼芸の鷹の画 (パンフより)
 
 
 
 
南泉寺の裏山の一番高所に土岐家の墓所
十代南泉寺殿 頼純 十一代東春殿 頼芸 が読み取れます。
 
 
頼芸が崇敬し本殿を改築し、石清水八幡宮を勧請、合祀して「十五社大権現」と改称。
子供の頃元旦には家族揃って初詣に訪れた懐かしい神社ですし、神主さんは私の小、中同級生。
 
     
    
 
道三は頼芸を追放して国盗りを成し遂げましたが、「大桑城で国中の仕置きをし、諸侍の
礼を受けた」と書かれており、守護の城である大桑城でなければ国盗り宣言はできなかった
のであろうとされる。
 
何処もかしこも幼いころの思い出がいっぱい残る大桑でした。
 
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