ひがし美濃の山城探訪 その2 明智光秀の明智長山城趾   平成30年9月 | Chajinの 徒然フォトブログ

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二度目になりますが明智光秀ゆかりの可児市長山、明智長山城址へ訪れました。
この山の裏側近くにバラで名高いハナフェスタ公園があります。

平安時代に明智荘と呼ばれたこの地域にかかわりを持ったのが土岐明智氏であり、後に
明智光秀を生む一族です。
1342年に長山城を築き、その子孫が代々の居城にしました。
1556年に稲葉山城主、斉藤義龍の攻撃を受けて落城、この付近が織田信長領となった後
先祖代々の旧跡として光秀の所領になったと伝わります。

近くを通る名鉄広美線に「明智駅」がありますが今ではどこにも明智の地名は残されていません。
























訪れた日は人っ子ひとり見ませんでした。 除草はされていましたが、9月4日の台風で倒れた
木々はそのまま、展望テラス台の前には木々が生い茂って全く望めません。

2020年の大河ドラマは明智光秀が予定されていますので、その頃にはきれいに整備されて
大勢の人々が訪れることでしょう。







 


次に訪れた岩村城趾で手に入れた岩村観光協会発行の「女城主おつやの方」をメインにした
戦国時代から安土桃山時代のこの地方の略系図。
異説もありますが私共の地方では市町村などでもパンフなど公に発行されています。

 
クリック、大きくしてご覧ください。


濃姫と光秀はいとこになります。


平成26年1月に訪れた明智城
 

上のブログにも記載させて頂きましたが、光秀は戦国時代には見られない美男子で
上の略系図に見られる子女のガラシャ、信長の妹お市の方、その息女三姉妹も美女の
誉あり、ひがし美濃は公家の末裔とも言われる美形ぞろいのようです(独断です)。
 
岸和田の本徳寺に伝わる光秀像



城下の曹洞宗 天龍寺の明智氏歴代の墓。









 






今回は天龍寺の奥様に快く本堂を開けて頂いて、日本最大と言われる光秀の位牌にお参りさせて
頂きました。 平成に入って作られた新しい物だそうです。
法名「長存寺殿明窓玄智禅定門」 、禅定門は戒名としては最下位だそうで、高位の戒名は
付け辛かったようです。









可児市土田に造られた土田御前信長像。
明智城址から6kmほどの距離には土田(どた)城址。この地では信長の母上は土田(どた)御前と
呼ばれる。  (清州の土田つちだ出身の説もあり) 
土田御前と信長像を造られた湯の華アイランド発行のパンフの系図。




土田城跡をバックに昨年建設されたばかりの土田御前、信長像







この後岩村城を訪れました。


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