岐阜県恵那市岩村町に在する岩村城は大和の高取城、
備中(岡山)の松山城とともに三大山城に数えられています。
歴史に疎い私ですが、城、城跡を散策するのはしばしば。
戦国時代の先人達のスケールの違いを思い知らされるのです。
芭蕉の「兵どもは夢の跡」で知られるように、苔むした石段、
城の急な階段を昇ると、大名や武士達の見下ろした城下町の
景色、敵軍が押し寄せるのを目の当たりに見るような、城を
築いた場所、要害堅固さ、すべて計算し尽くされたことに
感慨を覚えずにはいられないのです。
歴史を語るのは難しい。
町は岩村城の「女城主ゆかりの城」を歴史、観光のメインとして
唱えていますが、そのような史実はないと反論する人もあります。
標高717メートルの山頂、日本で一番高所にある山城です。
山頂にある昇竜の井戸は今も水が絶えることはなく不思議の一つです。
1570年、 遠山氏最後の城主は景任で、武田信玄によって攻められたが
信長の援護もあり守り抜いた。
1571年 景任が病没すると信長は5男で当時6歳(2歳、3歳説もある)の坊丸(織田勝長)を
遠山氏の養子とした。景任夫人は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方)で幼少の
養子に代わって女城主として差配を振るった。
1572年信玄は大軍を率いて家康を攻撃するために出陣し、同時に秋山信友に岩村城の
攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、信友は夫人を説得し妻に
迎えることを条件に城は開城した。
長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。
長男信忠を総大将に攻城戦を行い5ケ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。
開城の際、助命が約されていたが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が
長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。
その後、本能寺の変で討ち死にした森蘭丸も城主を務めたことでも知られる。
城は明治に入り廃城令により失われてしまいました。
江戸時代、平和な時代には城山の下方に藩主邸が作られ、城下に時を知らせた
太鼓櫓あとが平成2年に復元されました。
400年の歴史の中で生き続けてきた城下町。
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