「喜びは2倍に、
悲しみは半分に」
きっと一度は
耳にしたことがあるのでは?
「自信がない」
で立ち止まっている悩み多き女性を
「行動できるジブン」
に変えていく
夫婦間コミュニケーションコーチの
木村グロースようこです。
今週の火曜日、
95歳の祖母が退院して
自宅に帰って来れたと、
実家の父が報告してくれました。
入院先の病院で陽性反応が出て、
かなり心配していたんですが、
新薬が効いて熱もすぐに下がり
本当に良かった…
容態は落ち着いていますが、
でもやっぱり、95歳。
今はもう、
起きて歩いたり話をしたりが
できなくなったおばあちゃん。
この世にいてくれる時間は、
そんなに長くないんだろうなぁと、
あらためて痛感した夏でした。
そういうこともあって、
色々と考えるところがあった今週。
そこで想い至るのは
やっぱり…
ふたりでいても
悲しみは半分にならないし、
無理にしなくてもいいよね…
ということです。
結婚式のお祝いのスピーチなんかで、
必ずと言っていいほど入ってる文言。
喜びは2倍に
悲しみは半分に
きっと一度は
耳にしたことがあるのでは?
喜びが二倍になるのは、
結婚してみて、確かに
そうだなと思います。
仕事が見つかった!
試験に受かった!
弟のところに無事
赤ちゃんが生まれた!
etc...
嬉しいニュースを分かち合うと、
喜びの気持ちが膨らむことって、
喜びの気持ちが膨らむことって、
感じますよね。
ですが、悲しみを分かち合って
半分にできるのかどうか、
正直言って分かりません。
いや、半分にすることが必要なのかも、
どうなのかな、って思うんですよね。
それよりも大切なのは、
相手の悲しみの存在を
減らそうとかしないで、
丸のまま認めてあげること。
それが結局、何よりも
相手の支えになることを、
私達夫婦は実感しています。
例えばどういうことか、
という例を出しますね。
4年前に、私の父方の祖父が
老衰で亡くなったんですね。
小さい頃からず~っと、
可愛がってもらっていた私は、
やっぱりすごく悲しかったし、
寂しかったです。
一方で私の夫は、
自分のおじいちゃんおばあちゃんと、
あまり一緒に過ごすことなく育ちました。
だから、おじいちゃんおばあちゃんとの
思い出がほとんどないんですよね。
祖父が亡くなった時、
私はベルリンで訃報を
受け取ったんですが、
夫はもちろん側にいて
悲しみに寄り添ってくれたけど、
悲しみを一緒に
背負ってもらうことを
期待していたかというと、
全くそういうことは
なかったんですよね。
逆に、夫にとっては、
私がおじいちゃんとの別れを
悲しんでいることで、
彼自身の喪失感が
わいてきた
という面がありました。
どういうことかというと、
私がおじいちゃんの思い出を、
それこそ40年分持っているのに対して、
夫は、
自分には自分のおじいちゃんとの
思い出がほとんどない、
という喪失感です。
※実際に手にしたことがない存在に対して
「喪失感を持つ」というのも
とっても大切なグリーフのプロセスです
なので、私も、そして夫も、
私のおじいちゃんが亡くなった
という事象の前に、
全く異なった悲しみや喪失感を、
感じていたんですよね。
またもう一つの例は、
私たちの二度目の流産です。
自分達の子供を亡くした、
という現実に対して、
じゃあ同じような分量で、
同じようなタイミングで悲しいか…
というと、決して
そうではありませでした。
それは、わたしと夫で、
悲しむプロセスが違うからです。
例えば私が、流産で亡くした
子供達を思い出して
涙する日もあれば、
夫が、親戚の子供達と遊びながら、
辛い胸の痛みを感じる日もあります。
自分が悲しい時に相手が悲しくなくても、
それはOKなんだと受け入れるしかない。
そう思うんですよね。
それぞれにそれぞれの
タイミングがあり、
悲しみ方があります。
相手の心が癒えるように
何か特別に行動を起こすのではなしに、
相手の悲しみのプロセスを、
そばにいてしっかりと見届けることが、
大切なんじゃないかな。
悲しみを分かち合って
半分にできるのかどうか、
正直言って分かりません。
でも、その悲しみの存在を
丸のまま認めてあげることが
結局は何よりも相手の支えになることを、
私達は実感しています。
夫婦で歩く道のりには、
喜びも悲しみも必ずあります。
その両方が、
二人の絆を深めるために
なくてはならない
機会だと思っています。
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さて、この夫婦の間に生じる感情の違いと、
それをどう乗り越えていくか、
ということについて、
UMUという素晴らしいメディアで
今週公開されました。
もし良かったら、
読んでみていただけたら嬉しいです。
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