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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。

 どうすれば、手がけている何かが上達するのか、誰にもわからない。まず練習だろう。でもそれだけでは超えられない山がいずれ出現する。どうすれば、その山が越えられるだろうか。

 「わらべうたとえんげきの広場はちみつ」(以下はちみつと表記)による『おとなもこどもも 音と楽しむ宮沢賢治』の10月21日14時公演『セロ弾きのゴーシュ』を鑑賞した。宮沢賢治の原作を、奈良井伸子の語り、上田智子のハープ、外山賀野のチェロ、鳥毛こずえの影絵と人形で表現している。

 天井からは、赤や青、黄、白、紫の布が垂れ下がり、柱に付けられている。
正面には白く大きな布。その前にスペースが空いていて、観客席である座布団が並べられている。背後の壁面に沿って、客席の椅子がある。
舞台横上手側には、ハープとチェロ。下手側には、四角い台と、食器の乗った小さな机、椅子、簡素なベッドがある。
 観劇の注意事項を述べたあと、手遊びが始まる。手の動きと言葉だけで観客の注意を引きつけ、『セロ弾きのゴーシュ』の物語へとスムーズに入っていく。

 ゴーシュは街の活動写真館でセロを弾いているが、楽長には叱られてばかり。自宅に帰り練習していると、扉を叩くものがある。それは猫。猫は「シューマンのトロイメライ」を弾いてごらんなさいと言う。しかし、自分の畑のトマトをむしられたゴーシュは怒り、嵐のような勢いで「印度の虎狩」という曲を弾き、猫を慌てさせる。
 その次の晩にはかっこうが「音楽を教わりたいのです」とやってくる。かっこうと音を合わせていると、何だかかっこうのほうが正確な気がしてくる。
 次の晩には、たぬきの子が、小太鼓をセロに合わせてもらって来いと言われ訪れる。子狸が出した譜を、変な曲だといいながらもゴーシュは弾いてやる。
 そのまた次の晩、ねずみが子供を連れて入ってくる。子供の病気を治してほしい、先生のセロはみんなの病気を治している、と言われる。ゴーシュはセロの中にネズミを入れて弾いてやる。
 練習中やってくる動物達に、最初は酷く接するゴーシュ。しかし来客が続くうちに、諦めたのか、それとも何か思うところがあったのか、普通に接するようになり、最後のネズミの親子には、パンまで恵んでやるのだった。
 そして迎えた音楽会は成功。ゴーシュはアンコールを楽長より頼まれる。からかわれていると思ったゴーシュは「印度の虎狩」を演奏する。これがまた良い評価を受けるのだ。

 動物達が、知らずと練習の相手になってくれた、と読むことができる。だが、それはいつもと同じ練習ではないと考えられる。ここでの動物達は、ゴーシュにとって招かれざる客だ。そして、人間ではない。猫に自分のプライドを逆なでられても弾く。かっこうのほうが自分より正しいのではないかと疑念を抱く。子狸の持ってきた初めて見る符を弾く。ねずみをセロに入れて、一心不乱に弾く。自分が普段浸っている状況とは、違う状況に身を置かざるを得なくなって、ようやく越えられる山があったのではないか。そのためには、人ではない動物の力、人知を超えた自然の力が必要だったのではないか。

 人が誠心誠意を尽くした舞台。そこにふいに現れる演劇の力が、演劇を含む、芸術の感受性に大きく影響する。
 はちみつの作る舞台では、演者達それぞれの技術が注ぎ込まれ、子供達に届けるために最適と考えられる場作りがなされていた。子供だからといって手加減はしていない。観る人の想像力を信じて、場を整えて待っている。後は、観た者それぞれが、人知を超えた演劇の力をほんの少しでも感じ取ってほしい。そんな願いがその場には、込められているのだろう。
今年も10月~12月に「かなざわリージョナルシアター」が開催されます。

金沢市民芸術村ドラマ工房では、「劇評講座」を開講し、劇評家としてリージョナルシアターに参加していただける方を募集します!

◆劇評講座とは・・・
徳永京子氏(演劇ジャーナリスト)、藤原ちから氏(批評家、編集者)のお二人を講師とし、レクチャーやアドバイスを受けながら「かなざわリージョナルシアター」参加作品について劇評を書き、本ブログにアップするまでを体験する講座です。

◆講座の流れ
 ※講座の時間は、土曜日の開演時刻によって前後します。以下は19時開演の場合を例にしています。

1)土曜16:00~17:30に「プレレクチャー」として劇評概論や前回書いた劇評についてのアドバイスなどを行います。
2)休憩をはさみ19:00より講師を含め全員で観劇します。
3)終演後60分程度「ポストレクチャー」として今観たばかりの作品について感想を話し合います。
4)翌週水曜日までに劇評を書き、ブログにアップします。

上記の流れを毎週(前半3週間、後半3週間)繰り返します。

◆開講日時(時刻は予定です)

①10月21日(土) 12:00~13:30プレレクチャー 14:00開演  
 ※プレレクチャー後の休憩はなし
②10月28日(土)16:00~17:30プレレクチャー 19:00開演 
③11月4日(土)16:00~17:30プレレクチャー 19:00開演 
④11月25日(土)16:00~17:30プレレクチャー 19:00開演 
⑤12月2日(土)16:30~18:00プレレクチャー 19:30開演 
⑥12月9日(土)17:00~18:30プレレクチャー 20:00開演 

◆受講料
前半、後半それぞれ3,000円(観劇料を含む)
 ※前半のみ、後半のみの受講も可能です。

◆お申し込み
募集開始は8/15(火)です。
ドラマ工房発行のチラシに附属する申込用紙にご記入の上、芸術村事務所までご持参いただくかFAXにてお申し込みください。


この文章は、2016年10月~12月にかけて開催された「金沢市民芸術村20周年記念演劇祭 かなざわリージョナルシアター『劇処』」全体についての講評です。

 16年10月1日から12月11日までのおよそ2カ月間、金沢市民芸術村の開村20周年を記念した演劇祭が、同所で開催された。金沢市を中心に活動する劇団・カンパニーらが参加。児童劇、高校演劇、オリジナルの現代劇、アクション、社会劇、時代劇、舞踏などが、11週連続で上演された。フェスティバル全体について講評する。

 演劇祭は、毎公演、多くの観客で客席が埋まっていたことを考えると、イベントとしてある意味成功したと言えるだろう。けれども、一つのパッケージとしてこのフェスを俯瞰すると、背骨が折れ曲がったような、どこか芯のなさを感じてしまう。フェス自体に強さや厚みがなく、インパクトは弱かった。身内だけで小じんまりとまとまっていた印象を受けた。
 それは、客層が各劇団・カンパニーのこれまでの固定客で多くを占めていたこともあって、作り手が内向きな作品づくりに固執していた印象を受けたせいもある。このことは特に、第3週目に上演された野々市市民劇団「劇団nono」の『七人の』で顕著に感じられた。
 さらに、第2週目に行われた演劇ユニットK-CATの『血の婚礼』。西川信廣(文学座)が演出を手掛けていたが、読み稽古をそのまま舞台にしたような出来だった。金沢の俳優たちと真摯に向き合い、創作した作品とは言い難く、それは結果として、金沢の観客はこのぐらいのレベルで満足するだろうと、軽く見積もられたような気がした。
 県外の演出家を招聘した作品ではもう一つ、大トリを務めたシアターゴールドマインの『Erratic Hello(エラティック・ハロー)~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』もあった。快楽のまばたき(東京)の高田百合絵が演出した今作では、地元金沢の俳優たちによるワークショップの延長という感じがした。首都圏の演出家が、金沢という地方都市でどんな演劇を見せてくれるのだろうと、私のように期待していた人も少なからずいただろう。上演場所がどこであれ、勝負する姿勢が感じられなかったことは残念だった。
 フェスにとっては、上演順番も非常に重要なウエイトを占める。オープニングアクトを担当する団体には、フェスのその後の流れを作る大事な役割があるし、観客はその作品の完成度からフェス全般のクオリティーを推し測る。責任は重大だ。今回の上演タイムテーブルを見た時、児童らによる「キッズ☆クルー&人形劇団なみ」の『雪わたり』がトップバッターにラインナップされていたことには、違和感を感じずにはいられなかった。フェスの盛り上げ方、終盤に向けての展開の仕方など、緻密に練られて順番が決められたとは思えなかった。こうした中、子供たちは一生懸命に演じていた姿を目にできたことは救いであったし、彼らの頑張りは素直に評価したい。
 
 演劇祭を通して、楽しげなお祭りムードは十分に伝わってきたけれど、それは終始内向きな印象で、外部の不特定多数の観客を意識した外向きなものではなかった。
 クオリティーの高いフェスにするために、作品の作り手たちは地元金沢のファン層だけに評価されて満足するのではなく、金沢以外の地域の人たちのシビアな目に晒されているという一種の覚悟を持つことが、重要だと痛感した。
 金沢という一地方で、演劇レベルを向上させ、活性化させるために。作り手を含めた関係者の意識の変革のスタート地点として、今回のフェスを位置付けたい。
「この文章は、2016年12月10日(土)19:00時開演のシアターゴールドマイン『Erratic Hello』についての劇評です」

 シアターゴールドマインによる『Erratic Hello(エラティック・ヘロー)~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』(作・演出:高田百合絵)が金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された(2016年12月9~11日)。ガルシア=マルケスの短編小説「大きな翼のある、ひどく年取った男」を劇にした。
 ある海辺の町に落ちてきた翼を持った年老いた男。そんな彼が、最後には天使として空に飛び立つ。物語は、突然の不思議なアウトサイダーと遭遇した住民たちの様子を描いていた。
 
 私は観劇後、タバコに火を付けて、他愛ない記憶を思い出した。はるか昔の中学時代の恋。廊下や下校途中なんかにばったり出会っただけで、何とも言い難い幸福感に包まれていた青春ラプソディー。「あの子」への想いは大きくなるばかりで、自分自身でも気付かないうちに、頭の中で彼女は姿を変えていった。
 時間が経つほど、実際の彼女の印象は薄れていって、私の「妄想彼女」の存在が肥大化していく。そうして、いつしかイメージしたモノが本物を凌駕してしまう。現実の敗北、そして空想の勝利。現実の「あの子」には1ミリも罪はないはずなのに。

 こんな私の陳腐な妄想話とは一緒にできないけれど、今回の上演作品に登場した住民たちも、大きなイメージギャップを抱えていたと考えてしまう。天使らしき男に対して。「自分が抱く崇高な天使像はこんなんじゃねえ!」「天使はかくも薄汚れちゃいねえよ!」「こいつは悪魔に相違ないわ!」「天使様は……もっと気高くおられるはずじゃ!」などのセリフはなかったけれど。
 住民たちは、本物の天使かもしれないという噂を信じたりもしていたけど、各々の天使像を守るために、途中、無関心を装う行動に出たのだと思う。
 ラストシーンは、空を飛ぶ男の姿を人々が見守るようにして終わる。ここでようやく、天使のイメージを死守できたことで、皆に安堵の時が訪れる。
 自分の観念を信じ続けることは大切なことだ。だけれど、そのせいで自らの殻に閉じこもり、現実を直視できなくなるのも、何だか悲しいような、と考えてしまった。(金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」参加作品)
この文章は、2016年10月~12月にかけて開催された「金沢市民芸術村20周年記念演劇祭 かなざわリージョナルシアター『劇処』」全体についての講評です


 金沢を中心に県内で活動する劇団が、10月~12月にかけて11週間、週代わりに上演するという金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」は10月1日のキッズ☆クルー&人形劇団なみの『雪わたり』から始まり、12月18日のフィナーレ企画をもって幕を下ろした。
 まず、少し謝罪をしておきたい。『雪わたり』の劇評の際に、子供たちが俳優としてではなく教わる者として舞台に立っているように見えたこと、あとに上演する劇団が質の高い作品を上げてくれることも期待して、「演劇祭という枠の中で他の劇団と同じ土俵に立つことに違和感がある」と書いたが、それは大きな誤りだったことだ。蓋を開けてみれば、彼らの作品は演劇祭の中でも上位に数えるべきものという逆の結末だった。
 私的な順位づけや個別の評価を含め詳細を語るには字数が足りないため、それは別の場にて書こうと思うが、全体を振り返り一言で現すならば、金沢の演劇のレベルはこんなに低いのか……というのが素直な感想だ。
 僕自身演劇に携わる一員として、今回参加した団体が県内のすべての団体でないことは分かっている。しかし、県外など外からこの企画を見ればある意味で「オール金沢」の演劇祭に見られることは考えられる。仮に「オール金沢」でないとしても、市民芸術村ドラマ工房に集まる「オールドラマ工房」は十分にありえるだろう。
 作品が残したものという「作品としての価値」は別として、クオリティ(完成度)という視点で見たとき、僕が一定のクオリティがあると感じたものは、11作品中で3作品、キッズ☆クルー&人形劇団なみ、演芸列車東西本線、金沢舞踏館しかなかった。
 観客から金銭や時間を貰い、対価として作品を観せる。そこにはプロもアマチュアも関係ない。つまり、アマチュアであろうともプロと遜色無いものを要求されているという自覚が必要だ。日本のどこへ行っても、作品の完成度として一定以上の評価を受けるレベルかどうか。県外へ持っていっても「金沢の演劇」として誇れるレベルかどうか。そういったクオリティが必要だと僕は思う。
 ファンが多く、観客がたくさん入ることは一つの価値だろう。しかし、客数とクオリティは一致している訳ではない。オリジナリティを追求することも非常に大切なのだが、一定のクオリティを満たして初めてオリジナリティが評価されるのだということを、もっと意識して貰いたい。
 今回のような企画の場合、各劇団のクオリティは企画自体のクオリティに繋がる。つまり、全体として低いということは、市民芸術村ドラマ工房でやられている演劇のクオリティが低い。金沢の演劇のクオリティが低いということに繋がってしまう。その自覚が作り手にあったのだろうか。
 また、企画サイドもなんでもラインナップすれば良いということではなく、コンセプトや作品のレベルなど何かしらの線引きをするべきだったと思えてならない。
 確かに「市民が主役」の20周年企画群のひとつではあるが、芸術村ドラマ工房が金沢市の演劇の「拠点」として、「ドラマ工房に行けば上質な演劇が見られる」「ドラマ工房で上演するには、最低限この程度クオリティがないとダメだ」と劇団も観客も思う施設であることこそ、本来在るべき姿なのではないだろうか。このままでは、24時間使える安いだけの施設、24時間開いている公民館になってしまう。
 作り手が井の中の蛙になるのも、大きく羽ばたくのも観客次第という面はある。しかし、ドラマ工房という良い施設を得たが故にこの20年間で、作り手側の責任のハードルが下がってしまっただけなのではないか。そんな事まで考えてしまう演劇祭であった。