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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

【この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。】


会場に入ると2~3歳の子どもがたくさんいた。うわぁってなった。
自分の子育て時代の辛さがフラッシュバックするので親子連れが多い空間はとても苦痛である。
子どもたちが可愛くないわけではない。隣の子なんてとってもかわいかった。
芝居を真剣に見てた。人の動きをものすごく見てた。その目と表情が本当にかわいらしかった。
芝居を見ながら今どんな反応をしてるかなって、私はその子の顔と舞台を交互に見ていた。

お話は宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』。

ステージ中央にはスクリーン、上手にはハープとチェロ。
下手にはゴーシュの家の小さなテーブルと椅子とベンチがあった。
ゴーシュ・楽長・語りは奈良井伸子さん。
奈良井さんは東日本大震災後に拠点を東京から石川県内に移し、当時から精力的に活動を行っていて、その名前はフェイスブックなどでよく目にした。
チェロは外山賀野さん。ハープの上田智子さん。
影絵と人形は鳥毛こずえさん。不思議な台詞回しの動物たちを絶妙なトーンで表現し子どもたちの笑いを誘っていた。

楽団の練習で楽長にこっぴどくしかられたゴーシュ。
その悲しみはスクリーンいっぱいの大きな水色のしずくで表されていた。
家で稽古をしていると次々と動物たちが訪れる。
ネコ、カッコウ、子だぬき、ねずみの親子。
そして迎えた演奏会は観客からアンコールが起こり、楽長はゴーシュにアンコールに応えるように指示し、その演奏を絶賛する。
スクリーンには大きな水色のしずくが落ちてきた。そのしずくを手でグッと握りこんで物語は終わる。

見終わった瞬間、いい空間でいい物を見たという満足感があった。
その満足感を噛み締めようとすると今度は違和感が湧いてきた。芝居全体が頭の中でまとまらなくなってきた。
中でも最初と最後に映し出された水色のしずくの存在を、見終わってしばらくの間忘れていたことに軽くショックを受けた。
しずくはこの物語の中で象徴的な表現だったと思う。なぜ、しずくの存在を忘れたのか。影絵の部分と人と人形の部分の印象が違いすぎて、頭の中で一つのものと認識できなかったのではないか。
影絵と人形の部分がうまく繋がらないだけでなく、細かい部分で状況が分からなかったり、演者の動きの意図が分からなかったりするところが何ヶ所かあった。
私はこの物語をよく知らなかったので、過不足部分を脳内で補完することができなくて辻褄を合わせられなかった。
ただ、人と人形の芝居は動きが大きく台詞もテンポよく進められたので、客席の反応がとても良かった。子ども達は演者の動きに合わせて身体ごとあっちを向いたりこっちを向いたりしていた。
この部分は子どもたちを芝居にひきつけることが目的の一つであっただろう。
対して影絵はそのものの表現がとてもやさしいものだった。バランスで考えると、影絵である必要はなかったと思う。
でもこれは子供向けの芝居を上演するグループによる演目である。
影絵は子どもたちに見せたかった。音楽は生で聴かせたかった。飽きないように人形の芝居を入れた。
子どもたちに良いものを見せたいという作り手とそして親の思いの結果がこの構成だった。それはかつて私が子どもたちの食事に関していかに良い材料を使い、いかに栄養の偏りをないものを作るかいうことに気を配っていたことと同じことのように思う。でもいろんな食材を使った炒め物より肉とたまねぎだけの炒め物の方がおいしかったりするのだ。青物の小鉢をつければ栄養的にオッケーだ。
今回私は子どものためではなく、私自身が芝居をみるつもりで会場に入った。
子供向けの作品は大人の鑑賞に堪えうるものとはならないのだろうか。
この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。

「セロ弾きのゴーシュ」は、子どもの頃は魅力がわからず、大人になるにつれ好きになった童話の一つだ。それを「わらべうたとえんげきの広場 はちみつ」はゼロ歳児からを対象に上演するということで、どう表現するのか興味が湧いた。

物語の主人公ゴーシュは町の楽団でチェロを担当しているが、一番下手で団長に怒られてばかり。演奏に「感情がさっぱり出ない」と言われてしまう。町はずれの小屋に帰り、本番へ向けて何とか上手くなろうと練習していると、夜ごと動物が訪れてくる。気取った三毛猫、音楽を教わりたいかっこうや狸の子、病気の子ねずみとそのお母さん…一様に、チェロを弾くよう頼んでくる。招かれざる客に対して、ゴーシュは「生意気だ」とか「狸汁にしてやろうか」などと悪態をつきながらも、求めに応じチェロをごうごうと奏でる。そんな動物たちとの交流を通して、ゴーシュは演奏家としても人間的にも一回り成長する。

と、今なら何となくテーマも考察できるが、初めて絵本を買い与えられた四、五歳の頃には、どこがおもしろいのかよくわからなかった。童話にしてはわかりやすく教訓めいていないし、主人公ゴーシュも決して「いい人」ではない。最後には演奏が褒められてめでたし…と思いきや、本人は上達の実感がないまま終わってしまう。(大体、セロって何?と思っていた)

「はちみつ」の舞台はまずゴーシュが登場する前に、上手のハープ(上田智子)とチェロ(外山賀野)の生演奏、中央の幕に投影した影絵で、物語の世界へ観客を引き込む。美しいのにどこか寂しい音色に、動物や楽器をイメージした幻想的な影絵が重なると、まさに自分が抱く宮沢賢治の世界(架空の理想郷)が再現されたようで嬉しくなった。

だが、奈良井伸子演じるゴーシュが登場し、影絵の猫と会話するシーンになると、あれっと引っかかった。セリフはほぼ原作通りだが、記憶の中の孤独な青年ゴーシュ像に比べ、終始元気よく動作の大きいゴーシュはかんしゃく持ちの少年のようなのだ。かっこうからは影絵ではなく実際の人形に変わり、人形遣いの鳥毛こずえが表情豊かに演じるから、余計にその会話は人と人の漫才のようにコミカルで、笑わされながらも少し違和感が残った。うまくいかない鬱屈を抱えた青年が、人間ではないものとの交流を通して成長する―という側面が伝わりにくいと思ったからだ。

一方で好きな原作だからこそ、観客の大部分である未就学児たちが動物とのやり取りに声を上げて笑ったり、一緒に「かっこう」と口ずさんだりする姿に、安堵している自分もいた。きっと彼らは幼い頃の私のようにこの物語を「わからない」と片付けることはないのではないか。全体が理解できなかったとしても、一部分でも「楽しかった」と思えれば、物語に対しての良い感触が残り、いつか原作を読み返して別の魅力に気付くこともあるだろう。それは、幸せな文学作品との出会い方かもしれない。私自身これまで意識していなかったが、「会話劇」としても魅力的なお話だったんだ、と気づかされた面もある。

自分の解釈と異なる部分はあったが、子どもの目線でこの物語の面白さを引き出し、伝えたい、という作り手の思いは届いた。終幕後、舞台裏に案内され影絵で遊ぶ子供たちの楽しそうな顔を見て、届いたのは私だけではないはずだと確信した。

この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。



 「初めて演劇を観たのは何歳の頃だったろう。」
 保育園の頃だったか、それとも小学校の体育館での観劇教室だったか。おそらく母も覚えてないだろう。
 “わらべうたとえんげきの広場はちみつ”の『セロ弾きのゴーシュ』(原作:宮沢賢治)では観客の年齢制限はない。生まれたての赤ちゃんから観劇が可能である。土足禁止のフラットな客席とステージとの境界線はなく、前方の客席は子ども専用の座布団エリアであった。後方の座椅子エリアの一番後ろに座ったところ、目の前に広がる親子らの背中が劇の一部となっていた。「場違いでした」とおひとりさま観劇者は帰りたくなったが、時間が進むにつれてその感覚も薄れてきた。なぜなら出演者は子どもたちに媚びてなかったからである。最後まで子ども番組特有の声色は発せられず、コール・アンド・レスポンスも要求されなかった。出演者が子どもたちを“一人の人間”として捉えている姿勢を感じた。
 この作品ではさまざまな表現が出てくる。奈良井伸子の手遊びからはじまり、チェロ(外山賀野)とハープ(上田智子)の演奏、セロ奏者の主人公ゴーシュが楽団の団長から怒鳴られている日常は影絵、家でセロを練習するゴーシュは役者(奈良井)による芝居である。
 ゴーシュが家でセロを練習していた夜、動物たち(猫、カッコウ、子狸、ネズミの親子)が訪れ、ゴーシュに演奏の注文をする。最初は動物たちをバカにし、嫌味を言いながらも演奏するゴーシュだったが、次第にその注文には“音楽につながる何か”がある気がしてくる。そして迎えた楽団の演奏会でゴーシュは団長に絶賛され、動物たちとの夜に想いを馳せる…。
 そのゴーシュの家に次々と訪れる動物は黒子(鳥毛こずえ)による人形操作である。ふと、動物の人形を操る黒子が“黒子の役割り”であることを、子どもたちはどの瞬間に理解するのか気になった。また、ゴーシュがセロを弾くシーンもエアプレイである。(演技に合わせてチェロ奏者が演奏する。)その“見えないセロ”を、子どもたちはどの瞬間に脳裏に補っているのだろうか。時として“ないものがある、あるものがない”演劇のルールを子どもたちはどのように学んでいくのだろうか。その想像力とも言えるルールをこの劇を通して子どもたちは学んでいくのではないだろうか。
 「食べない。立たない。しゃべらない。」と、劇がはじまる前に役者によるルール説明があった。だが、終盤に一人の1歳くらいの女の子が何度もステージに足を踏み入れ、最後にはステージ奥の幕をめくり上げてしまった。目の前の親子らが笑って終えれたからよかったものの、これが万が一、セットが壊れたり、女の子が怪我でもしたら大変なことである。理由はわからないが、その女の子の母親は立ち上がって引き戻そうともしなかった。これには残念であった。
 「劇の邪魔をしないこと。」自分は誰から教わったのだろう。
この文章は、2017年10月21日(土)10:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。

 客席は主に桟敷席となっており、小さな子どもと赤ん坊を抱っこした親が今から何が始まるのか息を潜めているよう。柔らかな白い長布が天井から四方にめぐらされ、金沢市民芸術村ドラマ工房の木の骨組みと相まってテントの見世物小屋に来たような雰囲気だ。
 「わらべうたとえんげきの広場はちみつ」による、「セロ弾きのゴーシュ」(宮沢賢治原作)は年齢制限を設けず、子どもたちが初めて体験する演劇としても楽しめる演出となっていた。OHPを使った素朴な影絵が絵本のような舞台を作り出し、ハープの上田智子とセロ(チェロ)の外山賀野による生演奏は優しい音色で舞台への集中を持続させる。ゴーシュ役を演じた奈良井伸子は子どもたちをうまく舞台の世界に引き込む案内役をも務め、人形使いの鳥毛こずえは動物たちの動きと声を巧みに使い分け、舞台と客席を往還する動きで会場全体を物語に没入させた。
 オーケストラ楽団でセロを担当するゴーシュは、リズムや音程が外れることを楽団長にいつも叱られている。家に帰って独りやさぐれる彼のもとに、猫、カッコウ、たぬき、ネズミがそれぞれの事情で演奏をお願いに訪れる。自分さえよければよかった傲慢なゴーシュはいじわるな対応で追い返すのだが、音楽を学ぶことを拒絶されたカッコウの絶望を思いやることで、次第に相手の声に耳を傾けるようになる。そして自分のセロが誰かの役に立っていることを知って自身の演奏への自信を深めていく。
 動物たちは「まれびと」として異界からやってくる。その「まれびと」を音楽でもてなすことができて初めてゴーシュにとって真の芸能が始まる。こんな民俗学的な解釈もできそうな「セロ弾きのゴーシュ」は決して単純な物語ではないのだ。寛容性が失われ、社会の分断が進む情勢の中であらためて読まれ演じられる価値がある。劇の終盤近く、ゴーシュの変化とともに優しさと伸びやかさを増したセロの生演奏を聴きながらそのように思った。
この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。

泣き止まない子どもたち。ひっきりなしに声を上げ、母親にしがみつき、歩き回る。開演直前のそんな光景を見て、果たして芝居が上演できるのかと不安は増すばかり。そこへ一人の女性が現れた。奈良井伸子、わらべうたとえんげきの広場はちみつの主宰者であり、今回の作品「セロ弾きのゴーシュ」(宮沢賢治原作)でゴーシュを演じる女優でもある。彼女が右手の人差し指を立てて「子ブタさんが一匹…」と静かに語り出すと、子どもたちの集中力がみるみる波紋を描いて広がった。チラシには観劇対象年齢が「0才〜」と明記されている。奈良井をはじめ、人形使いの鳥毛こずえ(影絵も)、ハープ奏者の上田智子、チェロ奏者の外山賀野からは特に小学校へ上がる前の柔らかい心にも何かを残したいとの強い気迫が感じられた。

正面の大きなスクリーンに影絵を映しながら、上手側に座った上田と外山が生演奏を行う。下手側はゴーシュの家。最初の場面で指揮者(奈良井二役)から「遅れた」「糸が合わない」「君にドレミを教えている暇はないんだよ」「感情がない」などとこっぴどく叱られたゴーシュは、寝る間も惜しんでチェロを練習する。そこへ猫やカッコウ、子狸、ネズミの親子が訪ねてくるが、心に余裕がないゴーシュは猫の舌でマッチを擦ったり、太鼓を習いに来た子狸に「狸汁を知っているか?」と嫌がらせを言ったり、上から目線で動物たちをバカにしてストレスを発散する。しかし、カッコウに音程を直されたり、子狸からテンポの遅さを指摘されたり、チェロの振動で子ネズミの病気が治ったりと逆に教えられ、演奏家として成長していく。町の音楽会では指揮者に褒められ、アンコールのソロを任されて拍手喝采を浴びる。夜、家の窓から満天の星空を眺めた時、カッコウに冷たく当たったことなどを思い出して気が咎めるのだった。

ゴーシュは芸術家としての高い矜持を持つあまり、自分に信頼を寄せる動物たちに対しては不機嫌で傲慢な態度を取りがちだった。音楽会で成功を収めてふと一人になるや、彼らに助けてもらった自分の姿が初めて見えてきて申し訳ないやらありがたいやらさまざまな思いが一気に溢れてきたのではないか。単に楽譜をなぞることではなく、動物たちとのふれあいがあってこそ演奏にも「感情」が出てきたのだ。子どもらにどこまで伝わったかわからないが、むしろ社会で経験を積んだ大人の方が我が身を振り返って思い当たるフシもあり、共感できる作品となっていた。

一つ気になったのは、結末にゴーシュが後悔の涙を流すシーンで、曼荼羅のような円形の美しいデザインが次々とスライドで映し出された。宇宙の調和や神秘性を表現したのかもしれないが、それまでの具体的なストーリー展開から何の前触れもなく禅問答のような世界へと飛躍してしまい、少し戸惑いを覚えたのだった。