この文章は、2017年10月28日(土)19:00開演の劇団不完全燃焼『人造人間ナマミマン−異端英雄禄−』についての劇評です。
映画やアニメ、ゲームといった映像メディアでは、人を軽々しく刀で切ったり拳銃で撃ってもあまり違和感を覚えない。しかし、生身の身体が介在する演劇で同じことをすればいかにも嘘っぽく冷めた気持ちになってしまう。殺される間際に発せられる言葉のやりとりや愛の告白が、どこかで聞いたことがあるようでも、全く真実とは思えず「本当はそう思ってないよね」と白けて響く。劇団不完全燃焼による「人造人間ナマミマン-異端英雄禄-」を観て、最初の瞬間から最後の瞬間までそのようなストレスを受け続けた。
人造人間ナマミマン(北本開人)は、ダークジェネラル率いる「悪」の人造人間製造会社「カミヤ」に一人反旗をひるがえす。悪の人造人間たちと戦う「正義」の味方だ。業を煮やしたダークジェネラルは、人造人間ルーニー(能沢秀矢)にナマミマン抹殺を命ずる。ナマミマンと人間の少女、灯(あかり・増田奈菜子)、人造人間フタバ(笠間文菜)との三角関係あり、ルーニーを含めた仁義なき裏切りと報復ありでハードボイルドな物語の筋はめまぐるしく展開する。「正義」であるはずのナマミマンも人造人間を殺し続ける別の理由があることがわかり、その「正義」の意味が揺らいでいく……。
ブラックボックスの何もない舞台。効果音のタイミングは悪いし、照明は当てるべきポイントを外している。この舞台で、切った張ったの派手なアクションが繰り広げられるのだが、人造人間たちの争いの根底には、人間への反感と、その裏腹の人間になりたいという願望がある。悪の側の人造人間、ルーニーもとっても事情は同じ。そんな彼に、灯が言い放つ。「自分のことばかり考えていては人間になんてなれない。」でもほとんどの人間は自分のことしか考えていないことくらい観客は知っている。灯はためらいもなくどうしてそんなことが言えるのだろう。
演じられる世界という意味で演劇はフィクションかもしれない。しかし、身体があり、その場だけの時間、空間がある演劇は、観客にとって真実である。観客に対して、本当のことを伝えようとする意思がなければ何も伝わらない。
「人造人間ナマミマン」を観て感じる一番の違和感は、死をあまりにも軽く、フェイクに描いて何ら顧みない姿勢だ。人は痛みなく死なないし、死の間際に饒舌にはならない。エンターテインメントであり、人ではないアンドロイドであるから問題はないということかもしれない。しかし、人の形をしたナマミのものの死を扱うということ、それが観るるものに与える印象について、あまりにも軽んじている。
「シリア・モナムール」という映画がある。シリア内戦が始まり、フランス・パリに逃れざる得なかったシリア人監督は、YOUTUBEに投稿された現地からの映像をつなぎ合わせて映画を作った。反政府勢力への殺害や拷問の数々。映像の生々しさはもちろんだが、現地の状況に怒りを感じても、シリアに帰ることができず映画を作るしかない監督の焦燥感や怯えはリアルだ。
テロが身近に起こるかもしれないという漠然とした不安があり、誰もが真実やフェイクをSNSを通して世界に広められるメディア革命の時代。「リアル」や「真実」の意味が今こそあらためて問い直されている。そんな時代に、演劇がリアルさや真実を伝えないコンテンツだと誤って思われたら、この芸術は徐々に忘れ去られてしまうのではないだろうか。
この文章は、2017年10月28日(土)19:00開演の劇団不完全燃焼『人造人間ナマミマンー異端英雄禄ー』についての劇評です。
命とは。人造人間とは。正義とは。ヒーローとは。
これら全てに、明快な答えを出すことは簡単ではないだろう。
しかしその多くの疑問が、芝居の中に詰め込まれていた。劇団不完全燃焼第五回公演『人造人間ナマミマンー異端英雄禄ー』(作・演出 和田和真)は多数の問いに立ち向かった若者達の物語だった。
ドラマ工房の床より少し高くなっている黒い舞台。中央のスペースが広く取られ、後ろと左右数カ所に高低差が付けられている。この台以外にセットはない、シンプルな作りだ。
舞台には、人探しをしているらしい女性・灯(増田奈菜子)が現れる。なにやら声を聞いた彼女は、暗がりへと迷い込む。そこでは、ナマミマン(北本開人)が敵(能沢秀矢)と戦闘を繰り広げていたのだ。ナマミマンを助け、ナマミマンの相棒フタバ(笠間文菜)の所まで送り届ける灯。巻き込まれたことを理由に、二人の正体について彼女は追求する。ナマミマンとフタバは人造人間であり、自分達を生み出した企業に戦いを挑んでいたのだ。
中途半端はよくない、という家訓に基づいて、灯はナマミマン達に全面協力するようになる。だが彼女は見てしまうのだ。ヒーローであるはずのナマミマンが、敵を殺す場面を。その後彼女は知ることになる。ナマミマンが生きていくためには、ナノマシンが必要であること。組織から外れている彼らには、ナノマシンは、同じ人造人間を殺すことでしか入手できないのだと。
命とは、重いものか、軽いものか。どちらが回答として提示されていても構わない。回答を受け取った観客は、自分なりに感じたり考えたりするだろうから。『人造人間ナマミマンー異端英雄禄ー』では、人を殺すことに関して、灯がナマミマンを責める場面もあり、命の重さを表現しようとしていた。ただ、「命は重いもの」という一般常識が前提であるために、「劇団不完全燃焼の考える命の重さ」を示しきれていなかった。ナマミマンは生きていくために、人造人間を殺さなければならない。仲間を殺して生きていく命とは何なのか。ナマミマンはそのことをどう考えているのか。物語中に生まれた疑問に、劇団不完全燃焼なりの回答が出されていない、あるいは、出されていたのに届いていないことが残念に思える。立てられた問いの多さは、伝達を困難にした理由の一つである。
命とは。人造人間とは。正義とは。ヒーローとは。考える人の数だけ回答がある。だからこれらを表現として一つの形に決めることは、大変に難しい。それでも、こうだ、と言いきってほしいのだ。一般常識に添っただけではなく、常套句でもないものを。どこかで聞いたようなセリフではなく、それこそ生身の体から発せられる、発せざるを得ないような切実さを持った言葉で。ヒーロー物のテンプレートを外れること、みんなが知っているお約束をはみ出すことは、不安かもしれない。しかしその気持ちを自らが叱咤激励してほしい。まだ荒削りな、可能性のかたまりである表現欲。それを分析し再構築することに立ち向かってほしいのだ。
命とは。人造人間とは。正義とは。ヒーローとは。
これら全てに、明快な答えを出すことは簡単ではないだろう。
しかしその多くの疑問が、芝居の中に詰め込まれていた。劇団不完全燃焼第五回公演『人造人間ナマミマンー異端英雄禄ー』(作・演出 和田和真)は多数の問いに立ち向かった若者達の物語だった。
ドラマ工房の床より少し高くなっている黒い舞台。中央のスペースが広く取られ、後ろと左右数カ所に高低差が付けられている。この台以外にセットはない、シンプルな作りだ。
舞台には、人探しをしているらしい女性・灯(増田奈菜子)が現れる。なにやら声を聞いた彼女は、暗がりへと迷い込む。そこでは、ナマミマン(北本開人)が敵(能沢秀矢)と戦闘を繰り広げていたのだ。ナマミマンを助け、ナマミマンの相棒フタバ(笠間文菜)の所まで送り届ける灯。巻き込まれたことを理由に、二人の正体について彼女は追求する。ナマミマンとフタバは人造人間であり、自分達を生み出した企業に戦いを挑んでいたのだ。
中途半端はよくない、という家訓に基づいて、灯はナマミマン達に全面協力するようになる。だが彼女は見てしまうのだ。ヒーローであるはずのナマミマンが、敵を殺す場面を。その後彼女は知ることになる。ナマミマンが生きていくためには、ナノマシンが必要であること。組織から外れている彼らには、ナノマシンは、同じ人造人間を殺すことでしか入手できないのだと。
命とは、重いものか、軽いものか。どちらが回答として提示されていても構わない。回答を受け取った観客は、自分なりに感じたり考えたりするだろうから。『人造人間ナマミマンー異端英雄禄ー』では、人を殺すことに関して、灯がナマミマンを責める場面もあり、命の重さを表現しようとしていた。ただ、「命は重いもの」という一般常識が前提であるために、「劇団不完全燃焼の考える命の重さ」を示しきれていなかった。ナマミマンは生きていくために、人造人間を殺さなければならない。仲間を殺して生きていく命とは何なのか。ナマミマンはそのことをどう考えているのか。物語中に生まれた疑問に、劇団不完全燃焼なりの回答が出されていない、あるいは、出されていたのに届いていないことが残念に思える。立てられた問いの多さは、伝達を困難にした理由の一つである。
命とは。人造人間とは。正義とは。ヒーローとは。考える人の数だけ回答がある。だからこれらを表現として一つの形に決めることは、大変に難しい。それでも、こうだ、と言いきってほしいのだ。一般常識に添っただけではなく、常套句でもないものを。どこかで聞いたようなセリフではなく、それこそ生身の体から発せられる、発せざるを得ないような切実さを持った言葉で。ヒーロー物のテンプレートを外れること、みんなが知っているお約束をはみ出すことは、不安かもしれない。しかしその気持ちを自らが叱咤激励してほしい。まだ荒削りな、可能性のかたまりである表現欲。それを分析し再構築することに立ち向かってほしいのだ。
この文章は、2017年10月28日(土)19:00開演の劇団不完全燃焼『人造人間ナマミマン –異端英雄禄–』についての劇評です。
重い現実とぶつかってこそ、ドラマという火花が飛び散る。人間が避けがたい運命と直面した際に見せる美しさや醜さをドラマと呼んでいるのだ。過去に演じられたドラマからカッコいいセリフばかりを拾い集めても、新しいドラマは作れない。現役高校生と演劇部OB・OGらによるユニット、劇団不完全燃焼の第5回公演「人造人間ナマミマン」(和田和真作・演出)を見ながら、私はただ手応えもなしに次々と変わっていくシチュエーションを呆然と眺めていた。
ナマミマン(北本開人)は、ある企業によって製造された人造人間。人間に近いという設計コンセプトのため、能力は人並みだ。彼は自分を生み出した企業の陰謀に気付き、もう一人の出来が悪くて捨てられた女人造人間・フタバ(笠間文菜)と力を合わせてその企業と戦うことにした。敵は新世代の人造人間たちであり、彼らよりバージョンアップされているので強い(このあたり、1980年代に一世を風靡した名作SFの続編として最近公開されたハリウッド映画と似ている気がする)。そんな戦いの中で、何も知らない一般人女性・灯(増田奈菜子)を巻き込んでしまった。彼女はナマミマンの弱さに惹かれたらしく、強引に首を突っ込んでくる。ナマミマンが好きなのかと思ったが、他の男と付き合っていて赤ちゃんも生まれたらしい。だったら、彼にそこまで入れ上げる理由がよくわからない。また、余計なことに関わるなと彼女に警告しつつも、内部の事情を得意気にペラペラ喋ってしまうナマミマンらの軽率さも不可解だ。
なぜドラマが起きないのか?拳銃で撃たれて死んだと思われた敵幹部・ルーニー(能沢秀矢)が説明もなしにすぐ生き返る。ナマミマンとの付き合い方に悩む灯に対し、親身にアドバイスしてくれたのは何と敵のルーニーだ。ストーリー上、都合が悪くなった指し手を安易に戻すような「待った!」(将棋では反則行為)が多いのだ。ナマミマン自身、他の人造人間を殺して心臓部となる「ナノマシン」を奪わなければ生きていけない仕様だ。客観的に見て、お前が一番悪党じゃないかと、途中で叫びそうになった。自分は正義の味方だという主張の背後には、後ろめたさが隠されているのだろうか。しかし、今回の物語は、正義という概念の御都合主義とかナマミマンの原罪とかを暴く方向へ進むわけでもない。テーマ設定の曖昧さにより、ドラマは手元からすべり落ちてしまう。もしかしたら、作者は面白い脚本を書くには観客の予想を裏切り続ける必要があると考えているのかもしれない。しかし、そのためにはまず観客が何らかの状況を信じられなければならない。ところが、ストーリーに乗っかろうとしたとたんに前提が崩れるので、今後の展開どころか現状がどうなっているかの認識すらおぼつかない。
役者たちの集中力が最後まで途切れなかったことは救いだ。彼らもドラマへの憧れが強く、ドラマの世界に生きたいと心から願っているのだろう。しまいに私は作り手の意図とは全く異なる場面を幻視してしまった。そこでは20世紀半ばに書かれた有名な不条理劇よろしく、これらの登場人物たちは永遠のチャンバラごっこを遊び続ける刑に処せられている。彼らはドラマの光臨を待ち望みながら、ついにドラマは現れない。
重い現実とぶつかってこそ、ドラマという火花が飛び散る。人間が避けがたい運命と直面した際に見せる美しさや醜さをドラマと呼んでいるのだ。過去に演じられたドラマからカッコいいセリフばかりを拾い集めても、新しいドラマは作れない。現役高校生と演劇部OB・OGらによるユニット、劇団不完全燃焼の第5回公演「人造人間ナマミマン」(和田和真作・演出)を見ながら、私はただ手応えもなしに次々と変わっていくシチュエーションを呆然と眺めていた。
ナマミマン(北本開人)は、ある企業によって製造された人造人間。人間に近いという設計コンセプトのため、能力は人並みだ。彼は自分を生み出した企業の陰謀に気付き、もう一人の出来が悪くて捨てられた女人造人間・フタバ(笠間文菜)と力を合わせてその企業と戦うことにした。敵は新世代の人造人間たちであり、彼らよりバージョンアップされているので強い(このあたり、1980年代に一世を風靡した名作SFの続編として最近公開されたハリウッド映画と似ている気がする)。そんな戦いの中で、何も知らない一般人女性・灯(増田奈菜子)を巻き込んでしまった。彼女はナマミマンの弱さに惹かれたらしく、強引に首を突っ込んでくる。ナマミマンが好きなのかと思ったが、他の男と付き合っていて赤ちゃんも生まれたらしい。だったら、彼にそこまで入れ上げる理由がよくわからない。また、余計なことに関わるなと彼女に警告しつつも、内部の事情を得意気にペラペラ喋ってしまうナマミマンらの軽率さも不可解だ。
なぜドラマが起きないのか?拳銃で撃たれて死んだと思われた敵幹部・ルーニー(能沢秀矢)が説明もなしにすぐ生き返る。ナマミマンとの付き合い方に悩む灯に対し、親身にアドバイスしてくれたのは何と敵のルーニーだ。ストーリー上、都合が悪くなった指し手を安易に戻すような「待った!」(将棋では反則行為)が多いのだ。ナマミマン自身、他の人造人間を殺して心臓部となる「ナノマシン」を奪わなければ生きていけない仕様だ。客観的に見て、お前が一番悪党じゃないかと、途中で叫びそうになった。自分は正義の味方だという主張の背後には、後ろめたさが隠されているのだろうか。しかし、今回の物語は、正義という概念の御都合主義とかナマミマンの原罪とかを暴く方向へ進むわけでもない。テーマ設定の曖昧さにより、ドラマは手元からすべり落ちてしまう。もしかしたら、作者は面白い脚本を書くには観客の予想を裏切り続ける必要があると考えているのかもしれない。しかし、そのためにはまず観客が何らかの状況を信じられなければならない。ところが、ストーリーに乗っかろうとしたとたんに前提が崩れるので、今後の展開どころか現状がどうなっているかの認識すらおぼつかない。
役者たちの集中力が最後まで途切れなかったことは救いだ。彼らもドラマへの憧れが強く、ドラマの世界に生きたいと心から願っているのだろう。しまいに私は作り手の意図とは全く異なる場面を幻視してしまった。そこでは20世紀半ばに書かれた有名な不条理劇よろしく、これらの登場人物たちは永遠のチャンバラごっこを遊び続ける刑に処せられている。彼らはドラマの光臨を待ち望みながら、ついにドラマは現れない。
この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。
こころとからだを充分に解放して、自分自身に出会うことができるのが、演劇のよさのひとつではないだろうか。劇団「わらべうたとえんげきの広場はちみつ」による、宮沢賢治の名作「セロ弾きのゴーシュ」の舞台を観劇し、心なしか、軽くなった身体で会場をあとにしながら、私はふとそう考えた。
会場に入ると、子どものはじめて体験する観劇をやさしく迎えるように、天井から白く薄い布がめぐり、金沢市民芸術村ドラマ工房の木の柱をベージュの柔らかな布が包む。座席の多くは、床に座ってみることもできるような観客席になっている。小さな子どもや赤子を抱っこした親子がまだかまだかと、わくわくしている様子が目に入る。
語りかけるようなやさしげな口調の語り(奈良井伸子)、スクリーンに映し出される温かみのある影絵と滑らかな口調の人形姿の動物たち(鳥毛こずえ)、そして、ハープ(上田智子)とチェロ(外山賀野)の軽やかな音色が、子どもだけでなく、おとなの私までも宮澤賢治の童話の世界へと誘う。
物語は、楽団のセロ弾きゴーシュが、上手く演奏ができずに叱られてしまう場面から始まる。そして、間近に迫った音楽会のために、ひとり練習をしているところに、猫やカッコウ、たぬき、野ねずみの親子といった動物が訪れる。ゴーシュは、ときには傲慢な態度をとりながらも、自身の演奏に対する動物たちの小さな声にも耳を傾け、セロ弾きとして自分の見えていなかった部分に少しずつ気づいていく。そして、ゴーシュ自身も知らぬ間に演奏の腕を上げ、演奏会を成功させる。その後になって、動物たちに支えられていたことを思い出し「あのときはすまなかったなあ」と涙ながらに空に向かってつぶやく。
劇中のゴーシュの姿からは「人の成長とは何か」「表現とは何か」といった問いが観客の私に投げかけられているように感じた。大人は、子ども向けの演劇を退屈だと感じることもあるだろう。だが、大人も主人公のゴーシュを自分と無関係のものとして考えることは決してできないだろうと私は思う。なぜなら、人は本質的には孤独だからだ。人間の本当の人生は孤独から始まり、そして自然や他者といった存在との関わりによって、成長する。ゆえに、孤独なゴーシュが動物との交流の中で成長し、自身の音楽を自由な表現へと昇華していく様に、子どもだけでなく、大人たちも自身の姿を重ね合わせ、共感してしまうのではないだろうか。
ただ、主人公のゴーシュと動物たちとのセリフのコミカルな掛け合いは駆け足で、自分とゴーシュをリンクさせ、深く考える「間」が少なかったように感じた。だが、その軽快さゆえに、子どもたちが自由に鑑賞できる寛容な雰囲気もつくりだせていたようにもみえた。劇中に楽しげに声をあげ、歩くこどもたちの姿が、その意味を物語っていたように私には思える。
こころとからだを充分に解放して、自分自身に出会うことができるのが、演劇のよさのひとつではないだろうか。劇団「わらべうたとえんげきの広場はちみつ」による、宮沢賢治の名作「セロ弾きのゴーシュ」の舞台を観劇し、心なしか、軽くなった身体で会場をあとにしながら、私はふとそう考えた。
会場に入ると、子どものはじめて体験する観劇をやさしく迎えるように、天井から白く薄い布がめぐり、金沢市民芸術村ドラマ工房の木の柱をベージュの柔らかな布が包む。座席の多くは、床に座ってみることもできるような観客席になっている。小さな子どもや赤子を抱っこした親子がまだかまだかと、わくわくしている様子が目に入る。
語りかけるようなやさしげな口調の語り(奈良井伸子)、スクリーンに映し出される温かみのある影絵と滑らかな口調の人形姿の動物たち(鳥毛こずえ)、そして、ハープ(上田智子)とチェロ(外山賀野)の軽やかな音色が、子どもだけでなく、おとなの私までも宮澤賢治の童話の世界へと誘う。
物語は、楽団のセロ弾きゴーシュが、上手く演奏ができずに叱られてしまう場面から始まる。そして、間近に迫った音楽会のために、ひとり練習をしているところに、猫やカッコウ、たぬき、野ねずみの親子といった動物が訪れる。ゴーシュは、ときには傲慢な態度をとりながらも、自身の演奏に対する動物たちの小さな声にも耳を傾け、セロ弾きとして自分の見えていなかった部分に少しずつ気づいていく。そして、ゴーシュ自身も知らぬ間に演奏の腕を上げ、演奏会を成功させる。その後になって、動物たちに支えられていたことを思い出し「あのときはすまなかったなあ」と涙ながらに空に向かってつぶやく。
劇中のゴーシュの姿からは「人の成長とは何か」「表現とは何か」といった問いが観客の私に投げかけられているように感じた。大人は、子ども向けの演劇を退屈だと感じることもあるだろう。だが、大人も主人公のゴーシュを自分と無関係のものとして考えることは決してできないだろうと私は思う。なぜなら、人は本質的には孤独だからだ。人間の本当の人生は孤独から始まり、そして自然や他者といった存在との関わりによって、成長する。ゆえに、孤独なゴーシュが動物との交流の中で成長し、自身の音楽を自由な表現へと昇華していく様に、子どもだけでなく、大人たちも自身の姿を重ね合わせ、共感してしまうのではないだろうか。
ただ、主人公のゴーシュと動物たちとのセリフのコミカルな掛け合いは駆け足で、自分とゴーシュをリンクさせ、深く考える「間」が少なかったように感じた。だが、その軽快さゆえに、子どもたちが自由に鑑賞できる寛容な雰囲気もつくりだせていたようにもみえた。劇中に楽しげに声をあげ、歩くこどもたちの姿が、その意味を物語っていたように私には思える。
この文章は、2017年10月21日(土)14:00開演のわらべうたとえんげきの広場はちみつ『セロ弾きのゴーシュ』についての劇評です。
セロ弾きのゴーシュとは何者なのか。猫の舌は火傷させるし、カッコウが屋外へ出ようと何度も窓ガラスにぶつかるのをただ見ていたり。石川県金沢市で舞台版「セロ弾きのゴーシュ」を観劇してそんなことを考えた。
「0歳児から楽しめる宮沢賢治」と銘打って石川県で活動する「わらべうたとえんげきの広場 はちみつ」による舞台だった。会場は金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房。靴を脱いで客席へ進むと、客席天井にはカラフルな布が飾られ、子供たちのいる和やかな雰囲気であった。上手端にはハーピストとチェリストが控え、下手端にはテーブルやソファーが置かれ、ある部屋が現れていた。舞台中央には影絵が映し出されるであろう大きな白い布。原作を知らない私は、幻想的な影絵とハープとチェロの美しく優しい音色に包まれながら、不思議な童話の世界に浸る時間を期待していた。
物語はこうだ。楽団でチェロを担当するゴーシュは、演奏会に向けた練習真っ只中。指揮者からのダメ出しで、落ち込んでいた。家に帰ったゴーシュの元に、猫、カッコウ、子だぬき、ネズミの親子が順にゴーシュの演奏を求めて訪ねてくる。気が進まないながらも彼らの相手をしているうちに、ゴーシュはなぜかチェロが上達し、演奏会で成功を収める。魔法の物語ではなく、それぞれの動物たちとのやりとりが知らず知らずのうちにゴーシュに演奏家としての学びを与え、彼の演奏家としての向上に一役かっていたのである。
自らをストーリーテラーと称する語りの奈良井伸子、影絵、人形を担当した鳥毛こずえ両者の声は美しく,濁りなく滑かな台詞回し。切り絵による影絵はデジタル映像にはない温かみや静かな迫力があった。奈良井が演じる指揮者やゴーシュ、影絵や人形で表現された動物たち、時には演奏家たちが芝居に参加するなどし、観客を単なる読み聞かせでは体験できない世界へと連れて行く。ゴーシュの演じる立ち位置が舞台の上手と下手の端に寄りすぎていることが何度かあり、その度に舞台中央が寂しく感じることがあった。
終演後、私が開演前に持っていたメルヘン体験への期待は裏切られることはなかったものの、やけに重たいものが残っていた。私が劇中に目撃したゴーシュの意外な一面。あれは何だったのだろうか。家に訪れた猫を追い出すために、猫の舌でマッチを擦って火傷を負わせたゴーシュ。その次に訪れたカッコウに対しても、外へ出ようとしてガラス窓に何度もぶつかるのを、平気で見ていたゴーシュ。ゴーシュとは一体何者だったのだろうか。なんだか彼を得体の知れない不気味な人物のようにすら感じていた。セロ弾きのゴーシュは実は二重人格者で、猟奇的な一面を持つ青年だったのだろうか。いや、それだと動物たちの命は脅かされ、別の物語になっていただろう。
作品の前半、ゴーシュが落胆して帰宅したばかりの場面に戻って、こっそり彼の部屋に入ってみる。ドアを開けた途端に後ずさりしたくなるような空気が充満していた。「放っておいてくれ」という無言の圧力が聞こえてきそうだ。そんな状況で訪問者が来たらどうだろうか。鬱陶しいことこの上ない。人が音楽でスランプに陥っている傍でいい感じにさえずりだの腹だいこだのやってのけられたら、それはなんともおもしろくない。追い出したくなる気持ちもわかるし、舌の火傷くらい致命傷でもないんだしいいじゃないかという気にさえなる。誤って室内に入った鳥がガラス窓にぶつかるところだって見たことがある。珍しいことじゃない。私なら自分のことでいっぱいいっぱいな時に、他者のことなんて気遣っていられない。人が楽しそうに笑う声さえ嫌になることもある。いつの間にか動物たちにひどいことをしたはずのゴーシュがそれほど悪い人物とは思えなくなってきた。むしろ、私の中にセロ弾きのゴーシュが存在していたことに気付いた。動物こそ傷つけたことはないけれど、自分しか見えない状況で無意識に誰かを傷つけ、今まで生きてきた可能性は大いにある。
セロ弾きのゴーシュとは何者なのか。猫の舌は火傷させるし、カッコウが屋外へ出ようと何度も窓ガラスにぶつかるのをただ見ていたり。石川県金沢市で舞台版「セロ弾きのゴーシュ」を観劇してそんなことを考えた。
「0歳児から楽しめる宮沢賢治」と銘打って石川県で活動する「わらべうたとえんげきの広場 はちみつ」による舞台だった。会場は金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房。靴を脱いで客席へ進むと、客席天井にはカラフルな布が飾られ、子供たちのいる和やかな雰囲気であった。上手端にはハーピストとチェリストが控え、下手端にはテーブルやソファーが置かれ、ある部屋が現れていた。舞台中央には影絵が映し出されるであろう大きな白い布。原作を知らない私は、幻想的な影絵とハープとチェロの美しく優しい音色に包まれながら、不思議な童話の世界に浸る時間を期待していた。
物語はこうだ。楽団でチェロを担当するゴーシュは、演奏会に向けた練習真っ只中。指揮者からのダメ出しで、落ち込んでいた。家に帰ったゴーシュの元に、猫、カッコウ、子だぬき、ネズミの親子が順にゴーシュの演奏を求めて訪ねてくる。気が進まないながらも彼らの相手をしているうちに、ゴーシュはなぜかチェロが上達し、演奏会で成功を収める。魔法の物語ではなく、それぞれの動物たちとのやりとりが知らず知らずのうちにゴーシュに演奏家としての学びを与え、彼の演奏家としての向上に一役かっていたのである。
自らをストーリーテラーと称する語りの奈良井伸子、影絵、人形を担当した鳥毛こずえ両者の声は美しく,濁りなく滑かな台詞回し。切り絵による影絵はデジタル映像にはない温かみや静かな迫力があった。奈良井が演じる指揮者やゴーシュ、影絵や人形で表現された動物たち、時には演奏家たちが芝居に参加するなどし、観客を単なる読み聞かせでは体験できない世界へと連れて行く。ゴーシュの演じる立ち位置が舞台の上手と下手の端に寄りすぎていることが何度かあり、その度に舞台中央が寂しく感じることがあった。
終演後、私が開演前に持っていたメルヘン体験への期待は裏切られることはなかったものの、やけに重たいものが残っていた。私が劇中に目撃したゴーシュの意外な一面。あれは何だったのだろうか。家に訪れた猫を追い出すために、猫の舌でマッチを擦って火傷を負わせたゴーシュ。その次に訪れたカッコウに対しても、外へ出ようとしてガラス窓に何度もぶつかるのを、平気で見ていたゴーシュ。ゴーシュとは一体何者だったのだろうか。なんだか彼を得体の知れない不気味な人物のようにすら感じていた。セロ弾きのゴーシュは実は二重人格者で、猟奇的な一面を持つ青年だったのだろうか。いや、それだと動物たちの命は脅かされ、別の物語になっていただろう。
作品の前半、ゴーシュが落胆して帰宅したばかりの場面に戻って、こっそり彼の部屋に入ってみる。ドアを開けた途端に後ずさりしたくなるような空気が充満していた。「放っておいてくれ」という無言の圧力が聞こえてきそうだ。そんな状況で訪問者が来たらどうだろうか。鬱陶しいことこの上ない。人が音楽でスランプに陥っている傍でいい感じにさえずりだの腹だいこだのやってのけられたら、それはなんともおもしろくない。追い出したくなる気持ちもわかるし、舌の火傷くらい致命傷でもないんだしいいじゃないかという気にさえなる。誤って室内に入った鳥がガラス窓にぶつかるところだって見たことがある。珍しいことじゃない。私なら自分のことでいっぱいいっぱいな時に、他者のことなんて気遣っていられない。人が楽しそうに笑う声さえ嫌になることもある。いつの間にか動物たちにひどいことをしたはずのゴーシュがそれほど悪い人物とは思えなくなってきた。むしろ、私の中にセロ弾きのゴーシュが存在していたことに気付いた。動物こそ傷つけたことはないけれど、自分しか見えない状況で無意識に誰かを傷つけ、今まで生きてきた可能性は大いにある。