この文章は、2016年10月~12月にかけて開催された「金沢市民芸術村20周年記念演劇祭 かなざわリージョナルシアター『劇処』全体についての講評です。
〔ビフォー〕
『劇処』連動企画の《劇評講座》に何故参加したのか。最初の劇評で書いた理由(後に推敲の過程で削除した)は、次の2点である。
①演劇への飢え
②川柳大会をやり終えた
これらは、川柳人としての自己表現に飽き足らないものを感じ、演劇世界に新たな刺激を求めた、と言い換えてもよいだろう。川柳は五七五の十七音字がすべてである。言葉のみの長所も魅力もある。だが、台詞と所作、舞台が三位一体となった演劇は、隣の芝生の青さが他の何物にも増して引き立つことがある。
劇評、リージョナルシアターという言葉自体が初めて接するものだった。講座を受けても、専門語が飛び交い、置き去りにされることが間々あった。
〔《劇評講座》に参加して〕
それでも、講座を受け続け、劇評を書いていくうちに、不思議な高揚感を覚えるようになった。実によくできた講座だった。プレレクチャ―を受ける、劇を観る、感想を述べ合う、劇評を書き、ブログにアップする、次回にその講評を受ける、次の劇を観る、---の繰り返し。それが11週続く。まさかこのようにきつい日程とは知らなかったが、自分の場合は私用の不参加以外、何とか9公演を観て、劇評をアップすることができた。24時を守れないこともあったが、翌日の3時頃までにはアップした。金沢近郊で活躍する劇団・カンパニーが、手を替え品を替え連続公演するとはお膳立てがすごすぎると思った。
困ったことも当然あった。第一は、締切りである。土曜日に観劇して翌水曜日には劇評をアップしなければならない。自分は、舞台が依拠した原作とか関連の作品を読まないと劇評が書けないので、本を手に入れてから読み、考え、そして書くのに、実に慌ただしい思いをした。当然、読み切れないことがあり、歯がゆい思いをした。だが、それは無い物ねだりというべきだろう。逆に、時間がたっぷりあったら書けるものでもない。短期決戦で良かった気がする。昨年は間が空きすぎたとも聞いた。
第二は、舞台の宿命である、刻々消えていくものを記憶にとどめ、意味づけしなければならないこと。これには最後まで適応出来なかった。一回観て劇評を書くなど不遜な行為にも思えた。だが、これは慣れるしかないし、自分で必要な準備をするしかないと分かった。泣き言を言う時間があったら、対処せよである。
〔アフター〕
かなり厳しい劇評を書いたが、巡り巡って自身の課題も見えてきた。何のことはない、自分の粗を劇団に投影し、それに敏感に反応したのが自分の劇評ではなかったか。「達意性の不足」である。思いはあるが表現が伴っていないと劇評講座の講師から指摘された。劇評だけのことではない。つとにそれが川柳の課題でもあったのだ。
劇処フィナーレに参加して、シャッフル公演を楽しんだ。そして、幾つかの劇団の次年度の公演予定を聞いた。出来るだけ多くを観たいと思った。先ずは3月、キッズ☆クルーの『青い鳥』。『劇処』から、また7人の劇評からどれだけ、またどのように進化しているか楽しみである。
この文章は、2016年10月~12月にかけて開催された「金沢市民芸術村20周年記念演劇祭 かなざわリージョナルシアター『劇処』」全体についての講評です。
全12団体、一つとして「似た感じの劇団」がない。児童、高校生、市民、社会人と、劇団の種類の幅が広く、コメディ、アクション、時代劇、社会派と、表現するジャンルも異なる。一般的な演劇の他に、人形劇、朗読劇、舞踏など、表現方法も様々であった。「劇処」への参加団体が、金沢の演劇状況を代表しているわけではないだろう。だが、金沢に関連する演劇団体の一部分を取り上げただけで、これだけの多様性が見られるのは、一地域にとって幸せなことであろう。
この幸福のきっかけは、金沢市民芸術村(以下、芸術村と略)が開村し、20年も続いてきたことにある。プロが使う立派なホールはたくさんあるが、地域住民が、広く平等に24時間利用することができる場所は、簡単には存在しないのではないか。「劇処」は、その場があることと、場を守ってきた人々がいる有難さを、実感するよい機会になった。
「劇処」関連イベントとして開催された、シンポジウム「ドラマ工房20年のあゆみ~これまでも・これからも・いつまでも~」においても、その有難さを確認した。シンポジウムに登壇した、歴代のドラマ工房ディレクター全員から、芸術村への強い思い入れを感じたのだ。思うようには企画が進まない場面もあったことだろう。それでも、自分達が望むものを自分達の手で作り上げていけることに、大きな喜びと誇りがあったのだと思えた。そして、その思いをこれからも続けていこうという希望も見えた。場を守る存在はある。今まで通りのドラマ工房を持続していくことはできるだろう。
その上で、発展していくこともできればよいと思う。そのためには、運営側だけではなく、ドラマ工房を利用する各劇団の、さらなる向上が必要だろう。アマチュアなのにこれだけの表現ができる、といった驚きを観せてほしい。いや、素晴らしい表現の前に立場の違いは関係がない。面白い芝居が作りたいという劇団の思いと、面白い芝居が観たいという観客の思いが一致する、幸福な瞬間を、少しでも増やしていきたい。
そのためには、劇団側ではない視点の意見というものも必要で、その一つに劇評がならなければならない。「劇処」の企画の一つ「劇評講座」が今後も続くことを願う。地域住民による劇評の精度が高まれば、ドラマ工房と劇団にとって、よい影響を及ぼす存在の一つになれるだろう。
劇評も含め、観客の声をもっと劇団に届けなければならない。作り手から、ただ受け取っているだけではいけない。演劇空間では、受け手もその空気を一緒に作っているのだから。その、一度しかない時間のきっかけを作ってくれた人々に、何よりまず感謝と応援を。そして時には要望を。その声がよりよい次回へつながっていくことを信じて。そう感じた「劇処」の12週だった。
全12団体、一つとして「似た感じの劇団」がない。児童、高校生、市民、社会人と、劇団の種類の幅が広く、コメディ、アクション、時代劇、社会派と、表現するジャンルも異なる。一般的な演劇の他に、人形劇、朗読劇、舞踏など、表現方法も様々であった。「劇処」への参加団体が、金沢の演劇状況を代表しているわけではないだろう。だが、金沢に関連する演劇団体の一部分を取り上げただけで、これだけの多様性が見られるのは、一地域にとって幸せなことであろう。
この幸福のきっかけは、金沢市民芸術村(以下、芸術村と略)が開村し、20年も続いてきたことにある。プロが使う立派なホールはたくさんあるが、地域住民が、広く平等に24時間利用することができる場所は、簡単には存在しないのではないか。「劇処」は、その場があることと、場を守ってきた人々がいる有難さを、実感するよい機会になった。
「劇処」関連イベントとして開催された、シンポジウム「ドラマ工房20年のあゆみ~これまでも・これからも・いつまでも~」においても、その有難さを確認した。シンポジウムに登壇した、歴代のドラマ工房ディレクター全員から、芸術村への強い思い入れを感じたのだ。思うようには企画が進まない場面もあったことだろう。それでも、自分達が望むものを自分達の手で作り上げていけることに、大きな喜びと誇りがあったのだと思えた。そして、その思いをこれからも続けていこうという希望も見えた。場を守る存在はある。今まで通りのドラマ工房を持続していくことはできるだろう。
その上で、発展していくこともできればよいと思う。そのためには、運営側だけではなく、ドラマ工房を利用する各劇団の、さらなる向上が必要だろう。アマチュアなのにこれだけの表現ができる、といった驚きを観せてほしい。いや、素晴らしい表現の前に立場の違いは関係がない。面白い芝居が作りたいという劇団の思いと、面白い芝居が観たいという観客の思いが一致する、幸福な瞬間を、少しでも増やしていきたい。
そのためには、劇団側ではない視点の意見というものも必要で、その一つに劇評がならなければならない。「劇処」の企画の一つ「劇評講座」が今後も続くことを願う。地域住民による劇評の精度が高まれば、ドラマ工房と劇団にとって、よい影響を及ぼす存在の一つになれるだろう。
劇評も含め、観客の声をもっと劇団に届けなければならない。作り手から、ただ受け取っているだけではいけない。演劇空間では、受け手もその空気を一緒に作っているのだから。その、一度しかない時間のきっかけを作ってくれた人々に、何よりまず感謝と応援を。そして時には要望を。その声がよりよい次回へつながっていくことを信じて。そう感じた「劇処」の12週だった。
この文章は、2016年12月10日(土)19:00開演のシアターゴールドマイン『Erratic Hello ~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』についての劇評です。
金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第11弾(12月9日~11日)、大トリを飾ったのは、シアターゴールドマインの『Erratic Hello ~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』(作・演出:高田百合絵[快楽のまばたき])だ。
シアターゴールドマインは、チラシに記載されている出演者の名前の多くに括弧で所属先の団体名が書かれている通り、劇団ではなく企画ユニット。今回の公演は参加者の変動はあるものの、東京から快楽のまばたき主宰・演出家の高田百合絵を招き行われた今年9月のワークショップとその成果発表を経て、作品としてさらに作り上げられたものらしい。
しかし、目にした舞台の感想を率直に述べると、今回の公演自体が成果発表会だったのではないかと思える。
一つには、俳優たちにあるだろう。敢えて技術的な巧みさを見せないようにしているのではないかと逆に疑いたくなるほどに、多くの俳優が素人のような非常に無用心でぬるい体で舞台に立ち、取ってつけたような演技を行う。舞台を眺めながら、村芝居という言葉が浮かんでしまうほどだった。
そして、俳優の用いていた演技手法の多くは一般に「お芝居」と言われて思い浮かぶであろう新劇的なもの。演技手法と、張りぼての人形を天秤棒の両側に担いでみたり、レオタード姿の男にアニメ「キャッツアイ」の主題歌を歌わせてみたりという、コミカルであろう・軽妙であろうとすることにチグハグさを覚えた。俳優のぬるい姿もあって、とりあえずやってみました!といったような雑な軽さが漂うのだ。
もう一つは、この作品が何をコンセプトとし、何を描き出したかったのか……である。それは、なぜこの原作を取り上げたかという事にもつながるだろう。
チラシの上では〈ガルシア・マルケスの短編小説をモチーフに〉と記載されており原作は明記されていないが、「大きな翼のある、ひどく年取った男」をそのまま脚色し上演したようだ。では、ガルシア・マルケスの作品の肝となるのは何か。それは「マコンド」(町)に象徴される共同体ではないだろうか。共同体の外から訪れる他者、もしくは共同体の中に居ながらも隔絶した内側の他者。共同体という視点を通すことで始めて成立する作家なのではないかと個人的には思う。
原作は明記しないにしても、マルケスを扱うということはその視点を重視すると思ったが、俳優たちの拙さもあってか共同体という枠が立ち上がってこない。天使とただの野次馬のような有象無象でバラバラな多くの人々。もし、共同体が主軸でなく天使が主軸だとしても、共同体という枠組みとその反応でしか語ることが出来ないだろう。
とすると、マルケスが原作である必要は無かったのではないかとさえ思えてしまう。しかし仮に、原作と全く別な世界観を作ろうと考えイメージテクストと用いたのであるなら、ここまでそっくりな内容の脚本を作る必要は無い。
演出家は俳優たちに自身のコンセプトやマルケスの作品世界を理解させていたのだろうか? 発表会ではなく公演という形で作品として出すだけのクオリティを俳優たちに求めていたのか? なぜガルシア・マルケスの名前は出しつつも原作名を伏せたのか? なぜマルケスだったのか?
今もなお、僕の中に「なぜ?」が大量に浮かんだままだ。そして最大の疑問、なぜ俳優たちに対してあのクオリティでOKを出したのかということも……
金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第11弾(12月9日~11日)、大トリを飾ったのは、シアターゴールドマインの『Erratic Hello ~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』(作・演出:高田百合絵[快楽のまばたき])だ。
シアターゴールドマインは、チラシに記載されている出演者の名前の多くに括弧で所属先の団体名が書かれている通り、劇団ではなく企画ユニット。今回の公演は参加者の変動はあるものの、東京から快楽のまばたき主宰・演出家の高田百合絵を招き行われた今年9月のワークショップとその成果発表を経て、作品としてさらに作り上げられたものらしい。
しかし、目にした舞台の感想を率直に述べると、今回の公演自体が成果発表会だったのではないかと思える。
一つには、俳優たちにあるだろう。敢えて技術的な巧みさを見せないようにしているのではないかと逆に疑いたくなるほどに、多くの俳優が素人のような非常に無用心でぬるい体で舞台に立ち、取ってつけたような演技を行う。舞台を眺めながら、村芝居という言葉が浮かんでしまうほどだった。
そして、俳優の用いていた演技手法の多くは一般に「お芝居」と言われて思い浮かぶであろう新劇的なもの。演技手法と、張りぼての人形を天秤棒の両側に担いでみたり、レオタード姿の男にアニメ「キャッツアイ」の主題歌を歌わせてみたりという、コミカルであろう・軽妙であろうとすることにチグハグさを覚えた。俳優のぬるい姿もあって、とりあえずやってみました!といったような雑な軽さが漂うのだ。
もう一つは、この作品が何をコンセプトとし、何を描き出したかったのか……である。それは、なぜこの原作を取り上げたかという事にもつながるだろう。
チラシの上では〈ガルシア・マルケスの短編小説をモチーフに〉と記載されており原作は明記されていないが、「大きな翼のある、ひどく年取った男」をそのまま脚色し上演したようだ。では、ガルシア・マルケスの作品の肝となるのは何か。それは「マコンド」(町)に象徴される共同体ではないだろうか。共同体の外から訪れる他者、もしくは共同体の中に居ながらも隔絶した内側の他者。共同体という視点を通すことで始めて成立する作家なのではないかと個人的には思う。
原作は明記しないにしても、マルケスを扱うということはその視点を重視すると思ったが、俳優たちの拙さもあってか共同体という枠が立ち上がってこない。天使とただの野次馬のような有象無象でバラバラな多くの人々。もし、共同体が主軸でなく天使が主軸だとしても、共同体という枠組みとその反応でしか語ることが出来ないだろう。
とすると、マルケスが原作である必要は無かったのではないかとさえ思えてしまう。しかし仮に、原作と全く別な世界観を作ろうと考えイメージテクストと用いたのであるなら、ここまでそっくりな内容の脚本を作る必要は無い。
演出家は俳優たちに自身のコンセプトやマルケスの作品世界を理解させていたのだろうか? 発表会ではなく公演という形で作品として出すだけのクオリティを俳優たちに求めていたのか? なぜガルシア・マルケスの名前は出しつつも原作名を伏せたのか? なぜマルケスだったのか?
今もなお、僕の中に「なぜ?」が大量に浮かんだままだ。そして最大の疑問、なぜ俳優たちに対してあのクオリティでOKを出したのかということも……
この文章は、2016年12月10日(土)19:00開演のシアターゴールドマイン『Erratic Hello~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』についての劇評です。
劇処最終公演は、シアターゴールドマインによる『Erratic Hello~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』だった。タイトル、紹介文にある「大人のための残酷な童話」だけでも、既に日常を超えている。それに拍車をかけたのが、未読の〈ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの短編〉を〈モチーフにした新作〉である。どのような舞台が現出するのか見当もつかなかった。
雨が降り続く陰鬱な町に、ある日突然、ものすごく大きな翼を持った老いぼれた男が落ちて来た。海辺の町は騒然とする。彼の本性は何か?〈外国船の生存者〉か〈天使〉か。うさん臭いと思い、あまりにも人間に似ていると気づいた神父は、群衆に悪魔への警告をする一方で、ローマ法王に書簡を送り、最終的な判定を仰ぐ。現実の人間たちにはそんな悠長さは通じない。見世物として金儲けを思いつく夫婦、全快を願って訪れる不幸な病人たち。天使をつつく牝鶏、羽毛を抜き取って自分の患部を撫でる者、小石を投げる者、焼き印を押し付ける者まで現れる。このあたりは、矮小化の誹りを憚らず口にするなら、イエス・キリストとユダヤの群衆、また宗教指導者との関係に似ているところがある。「人の子」は何者か---奇跡を求めて集まる大勢の人---子供への親近感---だが、この天使とイエス・キリストの違いは歴然としている。威厳の有無と奇跡の量・質の差である。天使が行ったと見なされるごく少数の奇跡には、盲人の視力を回復することはできずに三本も新しい歯が生えたり、あるレプラの患者の場合は、傷口からヒマワリが芽を吹いたりしたとある。結局、この天使に対する評価はクモに変身した女よりも落ちてしまう。
原作の短編「大きな翼のある、ひどく年取った男」を読んで、舞台の展開の空白部分を補った。そして、自らの残像やメモとつき比べてみた。だが、謳い文句の「新作」の内実が思い当たらなかった。どこに「新」しさがあったのか。劇的に変わった部分がどこかあったのだろうか。もう一つ、「大人のための残酷な童話」とあったが、どこが「残酷な童話」だったのだろう。「残酷な童話」と言うなら、例えば倉橋由美子の『白雪姫』は小人たちの夜の伽をして家の厄介になり、王子は王妃を懲らしめに出掛け、逆に彼女に恋をして結婚したことになっている。そのような、毒に満ちた逆転部分がこの劇であったのだろうか。老いぼれた天使が、死にそうになった天使が、再び羽ばたきをするまでに回復して、飛び立つところで終わったのは、心楽しいものでありながらも、天使像をさらに分裂させるものとして働いた。勿論、天使に罪はない。天使の問題は、常に彼を巡る周囲の群衆の問題である。
吉野弘に「漢字喜遊曲」という詩がある。その三節は次の内容である。
舞という字は
無に似ている。
舞の織りなすくさぐさの仮象
刻々 無のなかに流れ去り
しかし 幻を置いてゆく。
これが舞台を考えるとき自分には一番ぴったりくる。フィジカルシアターというものに慣れていない自分は、また、ガルシア・マルケスの短編群の良い読者になれなかった自分は、最終公演「Erratic Hello」の良い観客にもなれなかったことを告白するしかない。確かな幻を留め置くことはできなかった。群衆は古今東西とんちんかんなことを言い、見境なく小石を投げる存在である。自分も確かにその一人であると感じた。
劇処最終公演は、シアターゴールドマインによる『Erratic Hello~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』だった。タイトル、紹介文にある「大人のための残酷な童話」だけでも、既に日常を超えている。それに拍車をかけたのが、未読の〈ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの短編〉を〈モチーフにした新作〉である。どのような舞台が現出するのか見当もつかなかった。
雨が降り続く陰鬱な町に、ある日突然、ものすごく大きな翼を持った老いぼれた男が落ちて来た。海辺の町は騒然とする。彼の本性は何か?〈外国船の生存者〉か〈天使〉か。うさん臭いと思い、あまりにも人間に似ていると気づいた神父は、群衆に悪魔への警告をする一方で、ローマ法王に書簡を送り、最終的な判定を仰ぐ。現実の人間たちにはそんな悠長さは通じない。見世物として金儲けを思いつく夫婦、全快を願って訪れる不幸な病人たち。天使をつつく牝鶏、羽毛を抜き取って自分の患部を撫でる者、小石を投げる者、焼き印を押し付ける者まで現れる。このあたりは、矮小化の誹りを憚らず口にするなら、イエス・キリストとユダヤの群衆、また宗教指導者との関係に似ているところがある。「人の子」は何者か---奇跡を求めて集まる大勢の人---子供への親近感---だが、この天使とイエス・キリストの違いは歴然としている。威厳の有無と奇跡の量・質の差である。天使が行ったと見なされるごく少数の奇跡には、盲人の視力を回復することはできずに三本も新しい歯が生えたり、あるレプラの患者の場合は、傷口からヒマワリが芽を吹いたりしたとある。結局、この天使に対する評価はクモに変身した女よりも落ちてしまう。
原作の短編「大きな翼のある、ひどく年取った男」を読んで、舞台の展開の空白部分を補った。そして、自らの残像やメモとつき比べてみた。だが、謳い文句の「新作」の内実が思い当たらなかった。どこに「新」しさがあったのか。劇的に変わった部分がどこかあったのだろうか。もう一つ、「大人のための残酷な童話」とあったが、どこが「残酷な童話」だったのだろう。「残酷な童話」と言うなら、例えば倉橋由美子の『白雪姫』は小人たちの夜の伽をして家の厄介になり、王子は王妃を懲らしめに出掛け、逆に彼女に恋をして結婚したことになっている。そのような、毒に満ちた逆転部分がこの劇であったのだろうか。老いぼれた天使が、死にそうになった天使が、再び羽ばたきをするまでに回復して、飛び立つところで終わったのは、心楽しいものでありながらも、天使像をさらに分裂させるものとして働いた。勿論、天使に罪はない。天使の問題は、常に彼を巡る周囲の群衆の問題である。
吉野弘に「漢字喜遊曲」という詩がある。その三節は次の内容である。
舞という字は
無に似ている。
舞の織りなすくさぐさの仮象
刻々 無のなかに流れ去り
しかし 幻を置いてゆく。
これが舞台を考えるとき自分には一番ぴったりくる。フィジカルシアターというものに慣れていない自分は、また、ガルシア・マルケスの短編群の良い読者になれなかった自分は、最終公演「Erratic Hello」の良い観客にもなれなかったことを告白するしかない。確かな幻を留め置くことはできなかった。群衆は古今東西とんちんかんなことを言い、見境なく小石を投げる存在である。自分も確かにその一人であると感じた。
この文章は、2016年12月10日(土)19:00開演のシアターゴールドマイン『Erratic Hello(エッラティックヘロー)~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』についての劇評です。
シアターゴールドマインの『Erratic Hello(エッラティックヘロー)~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』が、かなざわリージョナルシアター『劇処』参加作品として、金沢市民芸術村にて上演された。この作品は、ガルシア・マルケスの短編小説『大きな翼のある、ひどく年取った男』をモチーフとしている。作・脚本・演出は、東京の劇団『快楽のまばたき』の演出家、高田百合絵が手掛けた。
舞台は、劇場の一階と二階を使って構築されていた。上手側から、二階へと繋がる大きなスロープが作られている。下手側にもスロープがあり、こちらからは二階には上れないが、二階の柵の傍まで続いている。上演中、二階の下手側には、状況を語る役者が立つ。また、白い衣装を着て舞い踊る三人が、二階と一階を行き来する。
両スロープの壁面には、青や緑の抽象的な模様が描かれている。上手側のスロープの奥は部屋になっており、食卓と、三つの椅子が置かれている。下手寄りの床には、蟹の形に似た青と白の紙片が集められている。下手側の隅には、キーボードを置いた台が設けられており、上演中は生演奏がなされた。
何年も雨が降り続き、地面は打ち上げられた蟹であふれた陰鬱な町。そこに突然、年をとった男が落ちてくる。黒いボロボロの衣服に、ちぢれた黒髪。歯が抜けている。そして男には、毛は抜けて惨めなものの、黒い大きな一対の羽根があった。この男は何者なのか。男を見つけた一家は、金網の檻に男を捕らえる。男が来てから、雨が止み、赤ん坊が泣き止み、妻の腰の調子が良くなり、夫の膝の調子が良くなった。天使が落ちてきたと、噂はすぐに広まった。町は見物人であふれ、大騒ぎが始まる。
十数人の役者が一斉に舞台一階へ登場し、天使の檻に向かう。ある者は天使に触れ、ある者は踊り、ある者は蟹の形をした紙片をまき散らす。どこの誰を見ても浮かれた振る舞いが繰り広げられる。
天使の思し召しを求めて、多くの人々が訪れる。しかし彼の不思議な力は、素直に働きはしない。病の治癒を願う人の体に、花が咲いたりする。自分の思い通りにならないことに気付いた人々の足は、徐々に天使から遠ざかる。そして人々は、町に新しくやってきた見世物の、かわいそうな蜘蛛女に心を奪われるのだ。天使を巡る狂乱は終わる。
天使をとりまく人々の騒動を、おかしな調子で描く芝居だと最初は思った。だが、騒動が終わった後も芝居は続いていく。天使を保護した家族の赤ん坊が、学校へ上がるほど大きくなるまで、天使はひっそりと生き永らえるのだ。天使に、夫妻と子ども、子どもと天使を診察する医師が舞台に登場する。先ほどまでの賑やかさが嘘のように、静かな時間が舞台に流れる。
非日常は、長く続かないからこそ非日常だ。日常になってしまえば、なんの面白みもない。ではその日常は、長く続いて当然の物だろうか。違う。檻の隅でじっとし続けていた天使も、羽ばたくことを思い出す。 日常になったものも、いずれ終わる。この芝居の本質は、大騒ぎの非日常よりも、それが去った後の日常、そしてさらに、日常が変わりゆく瞬間を描いた部分にあったのではないか。そこにたどり着くまでの大騒ぎと、静けさの対比が印象に残った。
シアターゴールドマインの『Erratic Hello(エッラティックヘロー)~空から降ってきた大きな大きな羽根のある迷子のおかしなあいさつ~』が、かなざわリージョナルシアター『劇処』参加作品として、金沢市民芸術村にて上演された。この作品は、ガルシア・マルケスの短編小説『大きな翼のある、ひどく年取った男』をモチーフとしている。作・脚本・演出は、東京の劇団『快楽のまばたき』の演出家、高田百合絵が手掛けた。
舞台は、劇場の一階と二階を使って構築されていた。上手側から、二階へと繋がる大きなスロープが作られている。下手側にもスロープがあり、こちらからは二階には上れないが、二階の柵の傍まで続いている。上演中、二階の下手側には、状況を語る役者が立つ。また、白い衣装を着て舞い踊る三人が、二階と一階を行き来する。
両スロープの壁面には、青や緑の抽象的な模様が描かれている。上手側のスロープの奥は部屋になっており、食卓と、三つの椅子が置かれている。下手寄りの床には、蟹の形に似た青と白の紙片が集められている。下手側の隅には、キーボードを置いた台が設けられており、上演中は生演奏がなされた。
何年も雨が降り続き、地面は打ち上げられた蟹であふれた陰鬱な町。そこに突然、年をとった男が落ちてくる。黒いボロボロの衣服に、ちぢれた黒髪。歯が抜けている。そして男には、毛は抜けて惨めなものの、黒い大きな一対の羽根があった。この男は何者なのか。男を見つけた一家は、金網の檻に男を捕らえる。男が来てから、雨が止み、赤ん坊が泣き止み、妻の腰の調子が良くなり、夫の膝の調子が良くなった。天使が落ちてきたと、噂はすぐに広まった。町は見物人であふれ、大騒ぎが始まる。
十数人の役者が一斉に舞台一階へ登場し、天使の檻に向かう。ある者は天使に触れ、ある者は踊り、ある者は蟹の形をした紙片をまき散らす。どこの誰を見ても浮かれた振る舞いが繰り広げられる。
天使の思し召しを求めて、多くの人々が訪れる。しかし彼の不思議な力は、素直に働きはしない。病の治癒を願う人の体に、花が咲いたりする。自分の思い通りにならないことに気付いた人々の足は、徐々に天使から遠ざかる。そして人々は、町に新しくやってきた見世物の、かわいそうな蜘蛛女に心を奪われるのだ。天使を巡る狂乱は終わる。
天使をとりまく人々の騒動を、おかしな調子で描く芝居だと最初は思った。だが、騒動が終わった後も芝居は続いていく。天使を保護した家族の赤ん坊が、学校へ上がるほど大きくなるまで、天使はひっそりと生き永らえるのだ。天使に、夫妻と子ども、子どもと天使を診察する医師が舞台に登場する。先ほどまでの賑やかさが嘘のように、静かな時間が舞台に流れる。
非日常は、長く続かないからこそ非日常だ。日常になってしまえば、なんの面白みもない。ではその日常は、長く続いて当然の物だろうか。違う。檻の隅でじっとし続けていた天使も、羽ばたくことを思い出す。 日常になったものも、いずれ終わる。この芝居の本質は、大騒ぎの非日常よりも、それが去った後の日常、そしてさらに、日常が変わりゆく瞬間を描いた部分にあったのではないか。そこにたどり着くまでの大騒ぎと、静けさの対比が印象に残った。