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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2019年12月8日(日)13:00 開演の劇団ドリームチョップ『海へ(令和元年)』についての劇評です。

金沢市民芸術村ドラマ工房で12月6〜8日に上演された劇団ドリームチョップ「海へ(令和元年)」(脚本:dreamchop、演出:井口時次郎)は、劇団代表の井口時次郎が本人役を演じた一人芝居だった。2001年に行われた旗揚げ公演「海へ」の台本を井口が稽古場で偶然に発見したところから話は始まる。懐かしい思い出が込み上げ、当時の出演者にいきなり電話をかけたり、居酒屋に呼び出して会ったりするが、誰一人として井口の興奮を理解も共感もしてくれない。井口としては自分の頭の中でこれだけ鮮明に残っているのだから、他の劇団員たちとも当然分かち合えるはずだと考えるが、まったくの期待ハズレな結果に終わる。それはなぜなのか?当初は過去というものを客観的な事実であるかのように錯覚していた井口が、時間とは何かについて気付いて行く過程を追う作品となっていた。

井口が発見した一冊の台本とそれにまつわる当時の思い出、そして井口が書き直しつつある新しい台本とその過程で出会った女性との現実的なエピソード。少なくともこうした要素が複雑に絡み合った多層的な構造を持つ作品だが、上演に際しては巧みに整理されてわかりやすく提示されていた。オリジナル版「海へ」については、登場人物の三人が喪服を着ており、海難事故で死んだマコトについて語り合うものだったという。マコトは自殺ではなかったかと疑われていたが、現在の井口はマコトの死因について、18年前の自分がちゃんと考えていなかったのではないかと反省する。したがって、今回の作品は以前と比べて格段に成長した井口の視点から、死の真相に迫るミステリー仕立てなのかなと最初は予想させられた。

井口は、初演時のチラシ写真を撮影した羽咋の海辺を訪れてみた。砂浜に座り込んで物思いに耽っていると、ショウダという見知らぬ女性から唐突に声をかけられた。彼女との出会いはかなり非現実的であり、井口自身が言うようにアニメのヒロインみたいだった。しかし、ショウダはその後も稽古場に姿を見せ、台本作成にも関わってくる。ショウダはマコトの幽霊を出してみてはと提案する。最初はお笑いコントになってしまうからと嫌がっていた井口だったが、次第にマコト本人の口から語らせるというアイディアにハマっていく。

この作品のクライマックスは、井口が書き直した新しい台本の中で、幽霊として登場するマコトが自らの思いを語る部分だろう。しかし、井口があれほどマコトの死因を知りたがっていたにもかかわらず、実際に語られた内容は、妹のアキや友人だったマサヒロ、トシアキたちに関する最近の伝聞に過ぎず、死の真相についてはあっけないほど何もない。マサヒロは消防士をやめて普通のサラリーマンになり、結婚と離婚を経験した。カリスマ美容師と呼ばれていたトシアキは、今もまだ独立さえしておらず、ニューヨークへ進出する夢については口にするのさえ恥ずかしいようだ。OLだったアキは、結婚してお母さんになっている。マコトは、人生経験を重ねて成長して行く妹や友人たちに比べ、自分はいつまでもここにいて何もできないのが辛いと話す。しかし、それはマコトが幽霊である以上は必然的に甘受せざるを得ない状況であり、井口が知りたがっていた自殺の理由とは全然別の話だ。結局、マコトの死因は解明されることがなかった。その意味では、この作品は私が予想していたような謎解きミステリーではなかったわけだが、それ以上の面白さがあった。

それは過去とは何かということに関する井口の発見だ。井口が大切にずっと持ち続けてきた劇団旗揚げ当時の思い出について他人と感動を分かち合おうとしても、誰一人として井口と同じ形で過去を記憶している者はいなかった。それはすなわち自分自身の脳内にある思い込み以外、心の拠り所となるような確かな過去は、どこを探しても客観的には存在しないということだ。また、ショウダと出会った後でマコトの幽霊が喋り始めたように、過去は井口自身の中でも刻一刻と姿を変え続けている。結局、過去とはその人の現在に他ならないのだと感じさせられた。

(以下は改稿前の文章です。)

金沢市民芸術村ドラマ工房で12月6〜8日に上演された劇団ドリームチョップ「海へ(令和元年)」(脚本:dreamchop、演出:井口時次郎)は、劇団代表の井口時次郎が本人役を演じた一人芝居だった。2001年に行われた旗揚げ公演「海へ」の台本を井口が稽古場で偶然に発見したところから話は始まる。懐かしい思い出が込み上げ、当時の出演者にいきなり電話をかけたり、居酒屋に呼び出して会ったりするが、誰一人として井口の興奮を理解も共感もしてくれない。井口としては自分の頭の中でこれだけ鮮明に残っているのだから、他の劇団員たちとも当然分かち合えるはずだと考えるが、まったくの期待ハズレな結果に終わる。それはなぜなのか?井口は過去の感激を客観的な事実であるかのように錯覚しているが、それはもともと井口の脳内にしか存在していなかったからではないだろうか?

井口が発見した一冊の台本とそれにまつわる当時の思い出、そして井口が書き直しつつある新しい台本とその過程で出会った女性との現実的なエピソード。少なくともこうした要素が複雑に絡み合った多層的な構造を持つ作品だが、上演に際しては巧みに整理されてわかりやすく提示されていた。オリジナル版「海へ」については、登場人物の三人が喪服を着ており、海難事故で死んだマコトについて語り合うものだったという。マコトは自殺ではなかったかと疑われていたが、現在の井口はマコトの死因について、18年前の自分がちゃんと考えていなかったのではないかと反省する。したがって、今回の作品は以前と比べて格段に成長した井口の視点から、死の真相に迫るミステリー仕立てなのかなと予想させられた。

井口は、初演時のチラシ写真を撮影した羽咋の海辺を訪れてみた。砂浜に座り込んで物思いに耽っていると、ショウダという見知らぬ女性から唐突に声をかけられた。彼女との出会いはかなり非現実的であり、井口自身が言うようにアニメのヒロインみたいだった。しかし、ショウダはその後も稽古場に姿を見せ、台本作成にも関わってくる。ショウダはマコトの幽霊を出してみてはと提案する。最初はお笑いコントになってしまうからと嫌がっていた井口だったが、次第にマコト本人の口から語らせるというアイディアにハマっていく。

この作品のクライマックスは、井口が書き直した新しい台本の中で、幽霊として登場するマコトが自らの思いを語る部分だろう。しかし、井口があれほどマコトの死因を知りたがっていたにもかかわらず、実際に語られた内容は、妹のアキや友人だったマサヒロ、トシアキたちに関する最近の伝聞に過ぎず、死の真相についてはあっけないほど何もない。マサヒロは消防士をやめて普通のサラリーマンになり、結婚と離婚を経験した。カリスマ美容師と呼ばれていたトシアキは、今もまだ独立さえしておらず、ニューヨークへ進出する夢については口にするのさえ恥ずかしいようだ。OLだったアキは、結婚してお母さんになっている。マコトは、人生経験を重ねて成長して行く妹や友人たちに比べ、自分はいつまでもここにいて何もできないのが辛いと話す。しかし、それはマコトが幽霊である以上は必然的に甘受せざるを得ない状況であり、井口が知りたがっていた自殺の理由とは全然別の話だ。結局、マコトの死因は解明されることがなかった。したがって、謎解きミステリーとしてはあまり成功した作品とは言えない。しかし、私にとってはそれを上回る面白さがあった。

それは過去とは何かということに関する井口の発見だ。井口が大切にずっと持ち続けてきた劇団旗揚げ当時の思い出について他人と感動を分かち合おうとしても、誰一人として井口と同じ形で過去を記憶している者はいなかった。それはすなわち自分自身による思い込み以外、心の拠り所となるような確かな過去は、どこを探しても客観的に存在しないということだ。また、ショウダと出会った後でマコトの幽霊が登場したように、過去は井口自身の中でも刻一刻と姿を変え続けている。結局、過去とはその人の現在に他ならないのだと感じさせられた。
この文章は、2019年12月7日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『海へ(令和元年)』についての劇評です。

 金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房は、作り付けの座席はなく、自由な舞台配置を可能とする空間である。だが、どちらを正面として、どこにどれくらいの客席を作るかは、大体決まっている。ところが、劇団ドリームチョップ『海へ(令和元年)』(脚本・dreamchop、演出・井口時次郎)の舞台は違っていた。4段で30席ほどの観客席。小さめの舞台は黒い壁と床。背後には下手から、ファンヒーター、扇風機、スピーカーが二つ、照明機材と黒い箱が置かれている。手前の下手にはノートパソコンの載った小さな机と椅子、上手には劇団ドリームチョップの過去のチラシが所狭しと貼られたホワイトボード。そこは劇団ドリームチョップの稽古場を模しており、備品や機材は全て実際の稽古場で使われている物を運び込んだと、終演後に井口より聞いた。他会場での上演も考慮された、機動性の高い一人芝居の舞台になっている。

 稽古場で、劇団の旗揚げ公演であった『海へ』の台本が発見された。18年の時を経て、井口は改めてその戯曲に向き合う。それは、海で亡くなったマコトを巡る物語。遺品を整理するためマコトの部屋を、消防士のマサヒロと美容師のトシアキが訪れ、マコトの妹、アキが迎える。3人とも喪服を着ている。彼らは事故とされているマコトの死因についていぶかしむ。本当は自殺なのではないかと。
 
 懐かしさも手伝って井口は、かつての共演者3名に電話をしたり、直接会ったりする。だが皆『海へ』について特に興味を示してはくれない。やりきれない井口は、一人、浜辺にやってきた。そこで台本を読んでいるうちに、目の前の波へと思いが集中していく。マコトが何故自殺したのか、初演時にはよく考えられていなかった。マコトはそこで、何を思っていたのか。
 「海、好きなんですか?」ふいに女性から声が掛けられた。彼女は井口に次々と質問を投げかけてくる。台本について尋ねられ、説明した井口は、なぜか彼女、正田と台本を書き直すことになる。

 マコトは変わらない自分を辛く感じていたのだ。皆、大人になっていくのに、自分だけが大人になれない。また皆で、海で遊びたいけれど、変わってしまった彼らを誘うことができない。

 正田は実家の都合により、稽古場には来られなくなった。彼女から手紙が届く。台本を巡り、井口と過ごした時間について綴られた手紙の「応援しています。頑張ってください」の言葉に井口は感極まる。

 井口にとっては、演劇が海なのではないか。いつも変わらずにある大きな存在。そこで楽しく遊んでいたのに、いつの間にか仲間達は去っていた。しかし、皆、去ってしまうとしても。表現の波間で共に過ごした記憶は残る。そこは、決して穏やかで楽しいだけの場所ではない。しかし、そこから何かが生まれ、誰かに影響を及ぼしていく。井口は演劇という海を楽しみ、時には荒波を必死で泳いだ。その姿がさらけ出された一人芝居だった。


(以下は更新前の文章です)


 金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房は、作り付けの座席はなく、自由な舞台配置を可能とする空間である。だが、どちらを正面として、どこにどれくらいの客席を作るかは、大体決まっている。ところが、劇団ドリームチョップ『海へ(令和元年)』(脚本・dreamchop、演出・井口時次郎)の舞台は違っていた。4段で30席ほどの観客席。小さめの舞台は黒い壁と床。背後には下手から、ファンヒーター、扇風機、スピーカーが二つ、照明機材と黒い箱が置かれている。手前の下手にはノートパソコンの載った小さな机と椅子、上手には劇団ドリームチョップの過去のチラシが所狭しと貼られたホワイトボード。そこは劇団ドリームチョップの稽古場を模しており、備品や機材は全て実際の稽古場で使われている物を運び込んだと、終演後に井口より聞いた。他会場での上演も考慮された、機動性の高い一人芝居の舞台になっている。

 稽古場で、劇団の旗揚げ公演であった『海へ』の台本が発見された。18年の時を経て、井口は改めてその戯曲に向き合う。それは、海で亡くなったマコトを巡る物語。遺品を整理するためマコトの部屋を、消防士のマサヒロと美容師のトシアキが訪れ、マコトの妹、アキが迎える。3人とも喪服を着ている。彼らは事故とされているマコトの死因についていぶかしむ。本当は自殺なのではないかと。
 
 懐かしさも手伝って井口は、かつての共演者3名に電話をしたり、直接会ったりする。だが皆『海へ』について特に興味を示してはくれない。やりきれない井口は、一人、海にやってきた。そこで台本を読んでいるうちに、目の前の海へと思いが集中していく。マコトが何故自殺したのか、初演時にはよく考えられていなかった。マコトは海で、何を思っていたのか。
 「海、好きなんですか?」ふいに女性から声が掛けられた。彼女は井口に次々と質問を投げかけてくる。台本について尋ねられ、説明した井口は、なぜか彼女、正田と台本を書き直すことになる。

 マコトは変わらない自分を辛く感じていた。皆、大人になっていくのに、自分だけが大人になれないでいる。また皆で海で遊びたいけれど、大人になってしまった彼らを誘うことができない。
 井口にとっては、演劇が海なのではないか。いつも変わらずにある大きな存在。そこで楽しく遊んでいたのに、いつの間にか仲間達は去っていた。

 正田は実家の都合により、稽古場には来られなくなってしまう。彼女から手紙が届く。台本を巡り、井口と過ごした時間について綴られた手紙の「応援しています。頑張ってください」の言葉に井口は感極まる。
 いつか皆、去ってしまうとしても。演劇という大きな海で、一緒に過ごした記憶は残る。その海は、決して穏やかで楽しいだけの場所ではない。しかし、そこから何かが生まれ、誰かに影響を及ぼしている。演劇という表現に自らの人生をゆだねた井口の、渾身の一人芝居だった。
※この文章は、2019年11月30日(土)19:00開演の北陸つなげて広げるプロジェクト『ポット ワンダー ワールド』についての劇評です。


 開演待ちの時間、私は携帯を眺めていた。ふと気配がして顔を上げると、グレーの衣装の出演者たちが床に寝そべった状態で舞台上に入ってきた。客席の電気はついたままだ。始まったのかなとあわてて携帯の電源を落とす。出演者たちは床に張り付いたまま移動を続けている。しばらくして、場内アナウンスが入り、映像で観劇上の注意が流れる。映画館で流れる「NO MORE 映画泥棒」とほぼ同じ作りだ。時間のボリュームも同じくらいある。映像が流れている間も床には出演者がうごめいていた。出演者が登場した時点で作品が始まっているのだとしたら、ここまですべて必要だったのか疑問が残る長さだった。場内アナウンスと非常口の案内だけで十分だったのではないか。
 すべての連絡事項が終わると、グレーの衣装を着た別の演者が、頭からスライディングで舞台右側からパフォーマンススペースの手前に滑り込んできた。その演者が一人の演者と共に舞台左袖に掃けると、人がいた場所を何人もの人が手で撫ではじめた。何かを掻き集めているようだった。右側後方からかごを持った女性が一人入ってきた。何かを拾うような動きを何度もしながら歩いている。床に寝そべっていたほかの演者も立ち上がって何かを拾うしぐさをする。何かを拾いながら全員が一度掃けて行った。
 次の場面では全員がガラッと衣装を変えて出てきた。色とりどりのワンピース姿の演者が8人とスラックスとシャツ姿が2人。この後衣装チェンジはなく、エンディングまでいろんな場面が演じられる。朝、身だしなみを整える姿。演者の半分は化粧をする動作をしていたので女性の動きだろう。残りの半分はおそらく男性で、顎を手のひらでなぞる動作は髭剃りを表しているのかもしれない。その後、一人を除いたすべての演者が床に座ってポーチの中に入っている野菜で化粧をするしぐさをする。BGMは野菜を切る音。しかしこの場面で野菜はどう見ても食べ物としての扱われかたではない。口紅などの化粧品そのものだ。この前に表現していた化粧とこの場面の化粧、どういう意図でわざわざ違う表現をしているのだろうか。
 その後、様々な場面が表現されていく。干したパンツを6枚すべて奪われる男。一列に並んで拍手する人々の前で順番に歌謡曲を歌ったり踊ったりする人たち。どこの集団にも混ぜてもらえない男はBGMが電車のホームの音が使われていたので、満員電車内を表現しているのか。集団に入れない男がうなだれていると、次々に人が現れて足を踏み鳴らしたり別の人の手のひらに顔を乗せたり、バラバラな動きをしていく。
 最後は着ている衣装に合わせたような色のいろんな形の鍋を持ったパフォーマンスだった。「ポット=鍋 寄せ鍋のように 様々な人が集まってひとつの作品になる」。『ポットワンダーワールド』のリーフレットに書かれている文章だ。劇場という鍋に人や、様々な切り取られた場面が寄せ集められた作品だった。全体のまとまりが感じ取れなかったのは、私の受け取る力が足りなかったからだろうか。
この文章は、2019年12月1日(日)14:00 開演の北陸つなげて広げるプロジェクト『ポット ワンダー ワールド』についての劇評です。

11月30日・12月1日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された、北陸つなげて広げるプロジェクトのコンテンポラリーダンス作品『ポット ワンダー ワールド〜私たちはとびきり真剣で完全にゆかい〜』(振付・演出:宝栄美希)では、日常生活の中でふとこみ上げてくる可笑しさを独特な遊び心ですくい取った表現が全編に散りばめられていて面白かった。中には差別やイジメを扱ったとみられるシーンもあったが、それによって社会的な正義を訴えるわけではない。むしろ世の中で実際に起こっているネガティブな現象さえも、いたずらっぽく笑い飛ばそうとする挑戦的なエネルギーが感じられた。

女性ダンサーたちが舞台の前方で横一列に並び、客席に向かって化粧をするシーン。それぞれが化粧箱から取り出したのはなんとピーマンやパプリカ(?)などの野菜で、それを使って眉を描いたり、白粉をはたいたり。やがて人が増え過ぎて化粧台が足りなくなると、前に座っている人を引き抜いたり、横に押しのけたりと席の奪い合いが激化。本人たちがやりたくてやっているというより、嫌でも女性だけが社会から強制されているとも言える化粧という行為のグロテスクさを女性自身の視点から批評的に提示していた。

今回の作品では、唯一の男性ダンサーとして出演していた広本深之祐の存在が貴重だった。少し間の悪そうな雰囲気を漂わせられる彼だからこそ、お互いにあまりよく知らない男と女が同じ空間にいることによる妙な緊張感や違和感などが巧みに醸し出されていた。例えば、女性たちがグループに分かれてパイプ椅子に腰掛けている中で、広本が一つのグループに近づくと、とたんに危険を知らせる津波警報っぽい電子音が鳴り響き、女性たちは一斉に立ち上がって椅子ごと逃げていく。別のグループでもまた逃げられる。それが延々と繰り返され、広本は結局どのグループにも混ぜてもらえず、ついに隅っこで椅子から崩れ落ちて床に横たわる。男性への逆差別とも感じられたが、日常生活の中でそれほど珍しくもないのではないか?

あるいは広本がなぜか女物(?)の衣類をロープに干していると、いきなり女性たちがなだれ込んで来て、せっかく洗濯したスカートなどを奪い取り、みんなで楽しそうにパスし合う。広本が困り果てた表情でいくら頼んでも返してくれない。そんな場面が何度も反復される。こんなことが現実に起こったら、イジメそのものだが、ダンスは道徳を説くツールではない。ここでは大勢の人間がワイワイと騒ぐことによるお祭りのような熱気に焦点が当てられていた。

さらに結末近く、女性たちがフライパンや鍋を頭に載せて出て来るシーンがあった。それぞれ自分の調理器具を大切そうに抱きしめたり、愛おしむように撫でさすっている。そこへ山盛りの牛肉を両手で捧げ持った女性が入ってくると、女性たち全員が彼女の後を追いかけ始め、ついにはグルグルと大きな輪を描きながら舞台狭しと物凄い勢いで走り出す。女性=料理といった役割の固定化を助長しかねないとして、フェミニストの方々からクレームが来るのでは、と心配にもなった。しかし、そもそも作品のタイトルからして鍋(=ポット)という言葉が入っている通り、演出の意図はそうした批判も踏まえつつ、鍋が好きな女性たちもいるという素直な気持ちを表現したかったのではないだろうか。そんな女たちに囲まれて、広本が一人だけ床に置いた鍋の中に頭を突っ込んで黙然と逆立ち(3点倒立)をしていた。その不恰好で手持ち無沙汰な男性のあり方はユーモラスでどことなく可哀想でもあり、むしろ鍋を愛する女性たちが羨ましくもなってくる。

先にも書いたような男女の役割固定化に反対するフェミニズムの主張は真っ当であり、すでに社会的にも広く受け入れられているが、硬直化し過ぎれば新たなタブーを生み出してしまう恐れもある。今回の作品は、実際に起こっていることの観察に基づいて作り上げられているからこそ、強い表現となっていた。
この文章は、2019年11月16日(土)18:30開演の北陸学院高校演劇部 『七人の部長』 についての劇評です。

当日パンフレットによると、戯曲は「2001年夏の高校演劇全国大会で最優秀賞を受賞した名作」とある。舞台は平成13年の私立ヤツシマ女子高校、女子校だ。
放課後の生徒会室に7人の部長が集まってくる。議題は来年度の部活動予算案だ。承認されてすぐ終わるのが常の予算会議だが、演劇部部長が年間3600円の予算に意義を唱えたことから、物語が始まる。
進行役の生徒会長が生徒会規約を見ると、参加者全員一致なら予算案に対して拒否できるとあるが、早く会議を終えて部活に戻りたい運動部部長3名は予算案に賛成する。一方、生徒会長兼手芸部長を含めた文化部部長4名は反対する。お互いの部活への理解が全くなかった各部長は、会議とも言えないドタバタ劇の中で、お互いやその部活への理解を深めていく。
総じて喜劇なのだが、私には未知の世界であるはずの女子校を圧倒的リアリティでもって想像することができた。特に剣道部の「心・技・体」のイメージからはかけ離れた、部長の態度や口の悪さが、むしろリアルなのだと思わせる。運動部は全員タメ口で明るく、文化部が丁寧語で地味なルックスなのも、ステレオタイプかもしれないが、実際の高校生活もおおよそそんなものだった。
お互いを知るにつれ、文化部部長は一人また一人と予算案へ賛成していくが、最後まで反対の立場だったのは演劇部でもなく、生徒会長だった。「これまで56回会議に出席したけど、全て何も決めない会議だった。最後に一度くらい何かを決める会議がしたい。」そう言う彼女だが、結局会議は予算案への賛成で終わる。
生徒会長と剣道部部長しかいなくなった生徒会室に、演劇部部長が忘れていった予算案を取りに来る。「どうせ総会で配られるよ」という剣道部に、「でも演劇部のみんなに説明しないと」。演劇部部長はこれまでの3年間一度も舞台に立つことなく、裏方として部を支えてきたことがわかり、剣道部部長は、こっそり大道具を傷つけていたことを謝る。そして次の舞台を見に行くことを約束する。
全員いなくなり、夕暮れで薄暗くなった室内。剣道部部長が置いていった予算案にスポットが当たる。誰よりも会議に対し労力をさいているのに、何かを決めることは求められていない会議。作成した資料も置いて帰られる、生徒会長のその徒労感がとても切なかった。でも、この会議は彼女に徒労感だけを残したのだろうか、いやそうではない。それを超える充実感もあったはずだ。彼女たちの高校生活は明日から少し違う景色を得るだろう。
劇作者(越智優・愛媛県立川之江高等学校 演劇部コーチ)はなぜ舞台を女子校にしたのだろう。女子高生が7人も集まって、恋愛の話は冒頭のみ。あとはずっと男子すら会話に登場しなかった。女子たちはひたすら自分と部活の話をし、のびのびと笑い、怒り、訴え、理解し、抱き合っていた。異性がいないと、女子でいる必要がないのだ。今年7月、話題となったあるツイートを思い出した。『昨日女子校出身のお友達が言ってた「女子校ではみんな人間になる」というの、面白かったな。男子校はみんなで男になろうとする。男子が集まって生まれるのはジェンダーによる結束で、女子が集まって生まれるのはジェンダーからの解放なんだな。/太田尚樹 』
最後に、一度登場すると出入りもない。セット転換も暗転もない、音楽もほぼない。照明も夕日に変わるまでずっと同じ。このような緊張感の強いられる舞台で、笑いありしんみりありの60分の芝居を演じた7名の高校生に、心から称賛を送りたい。