この文章は、2019年11月16日(土)17:00開演の星稜高校演劇部 『またこの空の中で』 についての劇評です。
物語はグライダー選手である高校生のアカネが、決勝戦の舞台を迎えた場面から始まった。決勝戦の模様を伝えるアナウンスが、アカネを美人姉妹の妹と紹介する。アカネは乗り込もうとしたコックピットの中に、姉のリサがいるのに気づくが、そのまま操縦席に乗り込む。力を合わせ決勝戦のフライトへ飛び立った二人が不思議なカラスと出会い、冒険へと巻き込まれていくファンタジーである。
前方の平場と後方の高さのあるステージの2段の舞台になっており、平場におかれたグライダーは白い2つの台形のフレームでコックピットが表現されていた。グライダーが一気に高度を上げる様は、後方から客席に向かってのライティングと山並みを示す白い三角フレームが降りてくることで示されるなど、美術や照明にも様々な工夫がなされていた。
カラスの忠告を聞かず強風で操縦不能となったグライダーは山へ不時着する。そこは通称“ゴミ捨て場”で、廃品回収の男たちや廃品(捨てられた老女たち)と出会った姉妹は、老女たちから風神の使いと勘違いされ、風神のお札を4枚渡される。お札の力で風を起こした姉妹は、グライダーで飛び立つことに成功する。
次に姉妹がたどり着いたのは裁判所であった。姉妹はそこで殺人事件の裁判を目撃するが、女王のような裁判長とその手下のような陪審員達による不条理な有罪判決に、アカネはリサが止めるのも構わず、こんなのはおかしい!と発言する。その結果、今度はアカネが裁判にかけられそうになるのを、カラスと風神のお札の力で再び飛び立つ。
姉妹は、次にたどり着いた場所で、ハットにスーツ姿の男が、世界中の子どもたちを病から救いたいという医師の夢を喰う場面に遭遇する。大きくふくらんだその夢に苦しんでいる医師の首筋に、夢喰い人が噛みつきガツガツと貪る様は、夢から解放されるというよりは、結局夢に殺されているように見える。夢喰い人に、夢はなんだと問われたリサは、自分の夢は大きくふくらんで今にも叶おうとしていると生き生きと語る。一方、アカネは私の夢は一生かなわないと叫び、私の夢を食べてもいいよと、自暴自棄になる。
リサとアカネは、ともに、姉妹で空を飛ぶ夢を持っていたが、リサはグライダーの事故で亡くなっていたのだ。アカネは、リサがカコモリと一生働く契約を結ぶ代わりに、自分の元へ現れていたことを知る。これまでの不思議なカラスとの姉妹の飛行は、小さいアカネにリサが語ってくれたお話そのものだった。そしてリサに諭されたアカネは、たくさんの過去が封印されたこの場にリサを残し、一人飛び立つ決断をする。そしてアカネ一人を乗せたグライダーは現実に戻り、アナウンスが、姉の不幸な事故もあり心配されていましたが無事生還しました!と告げる。
不慮の死にもかかわらず、どうして私をおいていったの、お姉ちゃん!とリサを責めていたアカネが、1人でグライダーを降り立ち晴れやかな顔で大きく手を振るその姿は、成長を感じさせた。
部員たちにより書かれた戯曲とのことだが、伏線の回収やグライダーという設定もとてもよかったように思う。ただ、窮地に陥った姉妹が、自ら困難を乗り越えようとするのではなく、カラスはどこ!カラス助けて!と叫ぶのは、古典的ヒロイン像な気もした。また登場人物の人相を性犯罪者の顔と揶揄する場面も、指導者から何か意見があってもよかったのではないかと気になった。
※ この文章は、2019年11月23日(土)19:00 開演の劇団あえない『あやまって、愛』についての劇評です。
今年の「げきみる」で一番楽しみにしていたのが、劇団あえないだ。去年の作品は見せ方が独特だった。今年の作品は去年より洗礼されていて、分かりやすさがプラスされていた。答えまでの流れが一つではない。答えがあるのかないのか分からない。劇団あえないの作品の特徴だ。
舞台に向かって左側には白い小さなテーブル一つと白い椅子が4脚、右側には一段上がったところに白いベッドと電気スタンドが乗った白いサイドテーブルがある。110分の上演中、このセットですべてのシーンが違和感なく演じられた。
谷つぐみ(藤井楓恋)は児童文学の作家である。夫のさとる(間宮一輝)が絵を描き、執筆にはゆめ(大橋茉歩)が協力する。ゆめの存在を知るのはつぐみとさとるだけだ。さとるはつぐみが思い描くイメージも見える。つぐみは自分の世界を忠実に描くさとると一緒じゃないと執筆はできないと感じていた。さとるもつぐみのイマジネーション通りに絵を描くことで自分は評価されていると思っている。そんな二人にそれぞれ単独での企画が持ち込まれる。さとるには現在連載中の雑誌の編集者・水嶋(上野ひなた)から、つぐみには別の出版社から。お互いに単独企画があることは知らない。
高校生の頃、演劇部でとても仲がよかった桃子(荒井優弥花)が紺野先輩(能沢秀矢)につぐみより私を選んでと頼んでいるところを見てしまった。つぐみはショックを受けて、演劇部を辞めてしまう。桃子は紺野先輩を家族のいない家に誘ったのか、それともつぐみに会話を聞かれて「つぐみに嫌われた」と泣き崩れたのか。作品中ではこの二つのパターンが演じられた。そのときつぐみはゆめといた。辛い思いをするときにはいつもゆめがいる。辛い物語はゆめのせいなのだろうか。
コーヒーショップにさとるを探しに来たつぐみは、いつもの店員(玉城知佳乃)にさとると水嶋が二人だけでこの店に訪れていることを知らされる。つぐみはさとるを探しに行く。その喫茶店にかつて裏切った桃子が現れた。桃子はつぐみのことを忘れていなかった。つぐみとゆめは物語を作るパートナーである。つぐみのことを忘れていない桃子は現実に存在するのだろうか。つぐみとゆめの物語だろうか。桃子と紺野先輩の二つのエピソードはどちらかが現実でどちらかが物語なのだろうか。さとると水嶋は本当にホテルに行ったのだろうか。
つぐみの書く作品にイマジネーションを殺す黒い銃があった。苦しいのはゆめのせいだとつぐみはゆめに黒い銃を向ける。これまで起こった出来事は現実の中にゆめとつぐみが作った世界が混ざっていた。だが、つぐみは銃を収める。そして「決めた」のだ。ゆめはつぐみの一部だ。作品中に何度も出てきた言葉だった。つぐみは自分の一部を否定することをやめた。ゆめを含めて「つぐみ」である。自分を丸ごと受け入れたつぐみは、自分だけの作品を書く道を選ぶ。
つぐみには一人で生きていく力があることを「ゆめ」を消そうとしたときに気づいたのではないか。自分の力を信じる。軸がしっかりしていればぶれてもまた立ち直って生きていける。
(以下は更新前の文章です)
今年の「げきみる」で一番楽しみにしていたのが「劇団あえない」だ。去年の作品はテーマがものすごく刺さった。見せ方も好みだった。今年の作品は去年よりさらに洗礼されていた。答えまでの流れが一つではない。答えがあるのかないのか分からない。そこがものすごくいい。私は「劇団あえない」をこう捉えている。
左手には白い小さなテーブル一つと白い椅子が4脚、右手には一段上がったところに白いベッドと電気スタンドが乗った白いサイドテーブルがある。110分の上演中、このセットですべてのシーンが違和感なく演じられた。
谷つぐみ(藤井楓恋)は児童文学の作家である。夫のさとる(間宮一輝)が絵を描き、執筆にはゆめ(大橋茉歩)が協力する。ゆめの存在を知るのはさとるだけだ。彼だけがみえる。だからつぐみ書く物語の世界をつぐみが思っているとおりに描くことができる。つぐみは自分の世界を忠実に描くさとると一緒じゃないと執筆はできないと感じていた。さとるもつぐみのイマジネーション通りに絵を描くことで自分は評価されていると思っている。そんな二人にそれぞれ単独での企画が持ち込まれる。さとるには現在連載中の雑誌の編集者・水嶋(上野ひなた)から、つぐみには別の出版社から。お互いに単独企画があることは知らない。水嶋はつぐみがいなくても絵の才能だけで十分評価されるとさとるに強く企画を勧める。
ゆめは「私の一部だ」とつぐみは言う。高校での演劇部でとても仲がよかった桃子(荒井優弥花)が紺野先輩(能沢秀矢)につぐみより私を選んでと頼んでいるところを見てしまった。つぐみはショックを受けて、大会出場中の作品の主役を降りて演劇部を辞めてしまう。そのときもゆめはつぐみといた。桃子は紺野先輩を家族のいない家に誘ったのか、それともつぐみに紺野との会話を聞かれて「つぐみに嫌われた」と泣き崩れたのか。二つのパターンが演じられた。つぐみとゆめは物語を作るパートナーである。ゆめはつぐみが苦しいときに別の物語をつぐみと作っていたのだろうか。
コーヒーショップにさとるを探しに来たつぐみは、いつもの店員(玉城知佳乃)が自分のファンであることを知る。同時にさとると水嶋が二人だけでこの店に訪れていることも知るのだ。つぐみはさとるを探しに行く。その喫茶店にかつて裏切った桃子が現れた。桃子はつぐみのことを忘れていなかった。これは現実なのだろうか。つぐみとゆめの物語だろうか。
つぐみの書く作品にイマジネーションを殺す黒い銃があった。苦しいのはゆめのせいだとつぐみはゆめに黒い銃を向ける。これまで起こった出来事は現実の中にゆめとつぐみが作った世界が混ざっていた。だが、つぐみは銃を収める。そして「決めた」のだ。ゆめはつぐみの一部だ。何度も出てきた言葉だった。つぐみは自分の一部を否定することをやめた。ゆめを含めて「つぐみ」である。自分を丸ごと受け入れたつぐみは、自分だけの作品を書く道を選ぶ。
つぐみには一人で生きていく力があることを「ゆめ」を消そうとしたときに気づいたのではないか。自分の力を信じる。軸がしっかりしていればぶれてもまた立ち直って生きていける。
今年の「げきみる」で一番楽しみにしていたのが、劇団あえないだ。去年の作品は見せ方が独特だった。今年の作品は去年より洗礼されていて、分かりやすさがプラスされていた。答えまでの流れが一つではない。答えがあるのかないのか分からない。劇団あえないの作品の特徴だ。
舞台に向かって左側には白い小さなテーブル一つと白い椅子が4脚、右側には一段上がったところに白いベッドと電気スタンドが乗った白いサイドテーブルがある。110分の上演中、このセットですべてのシーンが違和感なく演じられた。
谷つぐみ(藤井楓恋)は児童文学の作家である。夫のさとる(間宮一輝)が絵を描き、執筆にはゆめ(大橋茉歩)が協力する。ゆめの存在を知るのはつぐみとさとるだけだ。さとるはつぐみが思い描くイメージも見える。つぐみは自分の世界を忠実に描くさとると一緒じゃないと執筆はできないと感じていた。さとるもつぐみのイマジネーション通りに絵を描くことで自分は評価されていると思っている。そんな二人にそれぞれ単独での企画が持ち込まれる。さとるには現在連載中の雑誌の編集者・水嶋(上野ひなた)から、つぐみには別の出版社から。お互いに単独企画があることは知らない。
高校生の頃、演劇部でとても仲がよかった桃子(荒井優弥花)が紺野先輩(能沢秀矢)につぐみより私を選んでと頼んでいるところを見てしまった。つぐみはショックを受けて、演劇部を辞めてしまう。桃子は紺野先輩を家族のいない家に誘ったのか、それともつぐみに会話を聞かれて「つぐみに嫌われた」と泣き崩れたのか。作品中ではこの二つのパターンが演じられた。そのときつぐみはゆめといた。辛い思いをするときにはいつもゆめがいる。辛い物語はゆめのせいなのだろうか。
コーヒーショップにさとるを探しに来たつぐみは、いつもの店員(玉城知佳乃)にさとると水嶋が二人だけでこの店に訪れていることを知らされる。つぐみはさとるを探しに行く。その喫茶店にかつて裏切った桃子が現れた。桃子はつぐみのことを忘れていなかった。つぐみとゆめは物語を作るパートナーである。つぐみのことを忘れていない桃子は現実に存在するのだろうか。つぐみとゆめの物語だろうか。桃子と紺野先輩の二つのエピソードはどちらかが現実でどちらかが物語なのだろうか。さとると水嶋は本当にホテルに行ったのだろうか。
つぐみの書く作品にイマジネーションを殺す黒い銃があった。苦しいのはゆめのせいだとつぐみはゆめに黒い銃を向ける。これまで起こった出来事は現実の中にゆめとつぐみが作った世界が混ざっていた。だが、つぐみは銃を収める。そして「決めた」のだ。ゆめはつぐみの一部だ。作品中に何度も出てきた言葉だった。つぐみは自分の一部を否定することをやめた。ゆめを含めて「つぐみ」である。自分を丸ごと受け入れたつぐみは、自分だけの作品を書く道を選ぶ。
つぐみには一人で生きていく力があることを「ゆめ」を消そうとしたときに気づいたのではないか。自分の力を信じる。軸がしっかりしていればぶれてもまた立ち直って生きていける。
(以下は更新前の文章です)
今年の「げきみる」で一番楽しみにしていたのが「劇団あえない」だ。去年の作品はテーマがものすごく刺さった。見せ方も好みだった。今年の作品は去年よりさらに洗礼されていた。答えまでの流れが一つではない。答えがあるのかないのか分からない。そこがものすごくいい。私は「劇団あえない」をこう捉えている。
左手には白い小さなテーブル一つと白い椅子が4脚、右手には一段上がったところに白いベッドと電気スタンドが乗った白いサイドテーブルがある。110分の上演中、このセットですべてのシーンが違和感なく演じられた。
谷つぐみ(藤井楓恋)は児童文学の作家である。夫のさとる(間宮一輝)が絵を描き、執筆にはゆめ(大橋茉歩)が協力する。ゆめの存在を知るのはさとるだけだ。彼だけがみえる。だからつぐみ書く物語の世界をつぐみが思っているとおりに描くことができる。つぐみは自分の世界を忠実に描くさとると一緒じゃないと執筆はできないと感じていた。さとるもつぐみのイマジネーション通りに絵を描くことで自分は評価されていると思っている。そんな二人にそれぞれ単独での企画が持ち込まれる。さとるには現在連載中の雑誌の編集者・水嶋(上野ひなた)から、つぐみには別の出版社から。お互いに単独企画があることは知らない。水嶋はつぐみがいなくても絵の才能だけで十分評価されるとさとるに強く企画を勧める。
ゆめは「私の一部だ」とつぐみは言う。高校での演劇部でとても仲がよかった桃子(荒井優弥花)が紺野先輩(能沢秀矢)につぐみより私を選んでと頼んでいるところを見てしまった。つぐみはショックを受けて、大会出場中の作品の主役を降りて演劇部を辞めてしまう。そのときもゆめはつぐみといた。桃子は紺野先輩を家族のいない家に誘ったのか、それともつぐみに紺野との会話を聞かれて「つぐみに嫌われた」と泣き崩れたのか。二つのパターンが演じられた。つぐみとゆめは物語を作るパートナーである。ゆめはつぐみが苦しいときに別の物語をつぐみと作っていたのだろうか。
コーヒーショップにさとるを探しに来たつぐみは、いつもの店員(玉城知佳乃)が自分のファンであることを知る。同時にさとると水嶋が二人だけでこの店に訪れていることも知るのだ。つぐみはさとるを探しに行く。その喫茶店にかつて裏切った桃子が現れた。桃子はつぐみのことを忘れていなかった。これは現実なのだろうか。つぐみとゆめの物語だろうか。
つぐみの書く作品にイマジネーションを殺す黒い銃があった。苦しいのはゆめのせいだとつぐみはゆめに黒い銃を向ける。これまで起こった出来事は現実の中にゆめとつぐみが作った世界が混ざっていた。だが、つぐみは銃を収める。そして「決めた」のだ。ゆめはつぐみの一部だ。何度も出てきた言葉だった。つぐみは自分の一部を否定することをやめた。ゆめを含めて「つぐみ」である。自分を丸ごと受け入れたつぐみは、自分だけの作品を書く道を選ぶ。
つぐみには一人で生きていく力があることを「ゆめ」を消そうとしたときに気づいたのではないか。自分の力を信じる。軸がしっかりしていればぶれてもまた立ち直って生きていける。
この文章は、2019年11月23日(土)19:00開演の劇団あえない『あやまって、愛』についての劇評です。
劇団あえない『あやまって、愛』(作・演出 大橋茉歩)は、才能ある女性を巡る、愛についての物語であろう。その愛の対象には、他者だけではなく、自分も含まれる。
舞台下手には、四角のテーブルと、3脚の折りたたみ椅子。上手は一段高くなっており、ベッドと、ベッドサイドテーブルにランプが乗っている。家具は全て白い。
女子高生が2人登場する。谷つぐみ(藤井楓恋)と三井桃子(荒井優弥花)は同じ先輩、紺野翔太(能沢秀矢)が好きらしく、彼の話題に興じている。3人は演劇部員である。これは、つぐみの思い出の話のようだ。
子供向け小説家として人気のつぐみと、彼女の小説の挿絵を担当する、夫の谷さとる(間宮一輝)。つぐみには、ゆめと呼ばれる存在(大橋茉歩)が見える。ゆめは、つぐみの想像力の源泉である。彼女が登場することで、つぐみにはアイデアがあふれ、小説を完成させることができるのだ。つぐみの想像上の存在であるかのようなゆめだが、なぜか、さとるにもその姿は見え、会話もできる。
ある時、つぐみの担当編集者である水嶋小夜子(上野ひなた)からさとるに、個人画集を出さないかという話が持ち掛けられる。つぐみの人気、ゆめの想像力のおかげで絵が描けているさとるは、2人に負い目を持っている。画集の話に、さとるの心は揺れる。
つぐみとゆめは少女ルナの物語を作っていく。転校先で仲良くなったミチルが、何者かに黒い銃で撃たれる。それは想像力を奪う銃であると、不思議な生物がルナに話し、これで彼女を撃てとピンクの銃を渡す。その銃によってミチルは想像力を取り戻し、ルナは魔法少女として敵と戦うこととなる。
つぐみに別の出版社からの原稿依頼が届くが、さとるはそれを素直に喜べない。2人の距離は離れていく。雨の日、家を出たさとるを探しに、いつも打ち合わせをしている喫茶店に来たつぐみは、店員・大室飛鳥(玉城知佳乃)からさとるが水嶋と会っていたことを聞き、愕然とする。
つぐみは思い出す。紺野先輩の相手役になりたかった桃子を差し置いて、自分が主役に選ばれたこと。紺野先輩は共演を喜んだが、桃子とはぎこちなくなってしまったこと。
紺野先輩も、さとるも、自分の才能を利用しただけではないか、才能、ゆめさえいなければ。つぐみはゆめに黒い銃を向ける。
だが、思い直したつぐみは、ピンクの銃を自分のこめかみに当てる。彼女は自分を理解しない他者よりも、自分の才能と共に生きていくことを選んだ。つぐみは想像力を駆使して、ラストシーンを自分に都合のよいように書き換える。それは彼女の想像上のことなのか、現実に起きたことなのかはわからない。彼女の行動は、自分にはどうにもできない他者のいる、現実からの逃避のようにも感じられる。だが、何よりも自分を信じ、愛した結果だと言うこともできる。他者任せの現実を過ごすよりも、自分だけで創造を行っていくほうが、きっと困難だ。
劇団あえない『あやまって、愛』(作・演出 大橋茉歩)は、才能ある女性を巡る、愛についての物語であろう。その愛の対象には、他者だけではなく、自分も含まれる。
舞台下手には、四角のテーブルと、3脚の折りたたみ椅子。上手は一段高くなっており、ベッドと、ベッドサイドテーブルにランプが乗っている。家具は全て白い。
女子高生が2人登場する。谷つぐみ(藤井楓恋)と三井桃子(荒井優弥花)は同じ先輩、紺野翔太(能沢秀矢)が好きらしく、彼の話題に興じている。3人は演劇部員である。これは、つぐみの思い出の話のようだ。
子供向け小説家として人気のつぐみと、彼女の小説の挿絵を担当する、夫の谷さとる(間宮一輝)。つぐみには、ゆめと呼ばれる存在(大橋茉歩)が見える。ゆめは、つぐみの想像力の源泉である。彼女が登場することで、つぐみにはアイデアがあふれ、小説を完成させることができるのだ。つぐみの想像上の存在であるかのようなゆめだが、なぜか、さとるにもその姿は見え、会話もできる。
ある時、つぐみの担当編集者である水嶋小夜子(上野ひなた)からさとるに、個人画集を出さないかという話が持ち掛けられる。つぐみの人気、ゆめの想像力のおかげで絵が描けているさとるは、2人に負い目を持っている。画集の話に、さとるの心は揺れる。
つぐみとゆめは少女ルナの物語を作っていく。転校先で仲良くなったミチルが、何者かに黒い銃で撃たれる。それは想像力を奪う銃であると、不思議な生物がルナに話し、これで彼女を撃てとピンクの銃を渡す。その銃によってミチルは想像力を取り戻し、ルナは魔法少女として敵と戦うこととなる。
つぐみに別の出版社からの原稿依頼が届くが、さとるはそれを素直に喜べない。2人の距離は離れていく。雨の日、家を出たさとるを探しに、いつも打ち合わせをしている喫茶店に来たつぐみは、店員・大室飛鳥(玉城知佳乃)からさとるが水嶋と会っていたことを聞き、愕然とする。
つぐみは思い出す。紺野先輩の相手役になりたかった桃子を差し置いて、自分が主役に選ばれたこと。紺野先輩は共演を喜んだが、桃子とはぎこちなくなってしまったこと。
紺野先輩も、さとるも、自分の才能を利用しただけではないか、才能、ゆめさえいなければ。つぐみはゆめに黒い銃を向ける。
だが、思い直したつぐみは、ピンクの銃を自分のこめかみに当てる。彼女は自分を理解しない他者よりも、自分の才能と共に生きていくことを選んだ。つぐみは想像力を駆使して、ラストシーンを自分に都合のよいように書き換える。それは彼女の想像上のことなのか、現実に起きたことなのかはわからない。彼女の行動は、自分にはどうにもできない他者のいる、現実からの逃避のようにも感じられる。だが、何よりも自分を信じ、愛した結果だと言うこともできる。他者任せの現実を過ごすよりも、自分だけで創造を行っていくほうが、きっと困難だ。
この文章は、2019年11月23日(土)19:00 開演の劇団あえない『あやまって、愛』についての劇評です。
かなざわリージョナルシアター2019「げきみる」参加作品として、11月23〜24日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団あえない『あやまって、愛』(作・演出:大橋茉歩)は、ドロドロな三角関係を描いたメロドラマであると同時に、主人公である人気作家・谷つぐみ(藤井楓恋)の想像力や才能の部分だけを別人格の「ゆめ」として他の役者(大橋茉歩)が演じるという実験的な仕掛けを持っていた。最初はつぐみとゆめが同一人物であることがややこしかったが、慣れてくると、自分の才能ですら他人事のように眺めてしまうつぐみの疎外感が胸に迫ってきて、作品の悲劇性を形成する大切な要素となっていた。
谷つぐみと彼女の小説に挿絵を描く画家の谷さとる(間宮一輝)という夫婦。お互いを理解し、尊敬し合い、仕事を通じて固く結び付いている理想的なカップルと見えた。しかし、そんな二人の間にさりげなく、編集者の水嶋小夜子(上野ひなた)によって小さな楔が打ち込まれた。単独で画集を出さないかと彼女から持ちかけられたさとるは、最初は冗談かと思ったようだ。だが、何度も繰り返し提案されるうち、彼の中で画家としての野心のようなものがうごめき始めた。やがてつぐみを交えずに会った二人はホテルへ行き、不倫関係に陥る。つぐみは、ショックのあまり仕事を投げ出し、連絡を絶った。そんな時にゴーストライターを雇い、さとるに絵だけ描かせて休載を回避した水嶋は、ある意味で有能な編集者とも言えそうだが、本当に作家やその表現に対して愛と敬意を持っているのかどうかには疑問符がついた。
二人の不倫に気付いた直後、つぐみはいつも行っていた喫茶店の店員・大室飛鳥(玉城知佳乃)からファンですと告げられる。店員は今まで何度もファンレターを送ったというが、つぐみには届かなかった。それは手違いなどでなく、水嶋は読者からのフィードバックをそのままゴミ箱へ放り込んでいたのかもしれない。実際にどうだったのか確証はないものの、次第に水嶋のドライな人間性が浮かび上がってくる。純粋で誠実なさとるをたぶらかし、不倫を指摘されるとさとるから誘ってきたなどと言い逃れる、始末に負えない女。そんな難しい役を演じた上野は、表情や身振りを最小限に抑えつつ、獲物を狙うような強い眼差しや低くてよく通る声などによって大人の女性の可愛さとセクシーさと嫌らしさを見事に醸し出していた。彼女の魅力的な演技こそが、その後のさとるの裏切り、つぐみの没落と続く物語の展開に説得力を持たせていた。
一方、つぐみの想像力だけを擬人化した「ゆめ」をつぐみ本人とは別の役者が演じたことについては、例えば、つぐみが執筆にとりかかる際にはゆめにお願いする形となる。ゆめがちゃんと働いてくれれば、つぐみたちは締め切りにも間に合って編集者の水嶋から、さすがはプロとほめられる結果になる。子どもの頃から物語を書いてきたつぐみにとって、ゆめは「自分の一部」ながら親友でもあった。他の人はゆめの存在にさえ気付かないが、さとるにだけはゆめが見えた。それはさとるの特別な才能の証とも言えた。しかし、さとるとゆめが直接話し合うシーンでは、今度はつぐみがカヤの外に置かれる形となった。それは奇妙な三角関係でもあり、「ゆめを分離されたつぐみとは一体何者なのか」という問いが湧いてきた。結局、さとるが求めていたのはつぐみの才能だけだったのかもしれず、生身の女としてのつぐみの孤独感を際立たせていた。つぐみを演じた藤井は天性のものなのか、深刻な場面でもどこかコミカルで、それによって逆に心の奥底ではどれだけ傷ついているのだろうかと想像力を掻き立てられた。
さらに高校時代の演劇部で、花形役者だった先輩・紺野翔太(能沢秀矢)の相手役を決めるオーディションのエピソードが本筋と並行して交互に語られる。そこではつぐみの想像力豊かな演技が先輩にも気に入られ、見事に相手役を射止めることができた。しかし、一緒に相手役を争っていた友人・三井桃子(荒井優弥花)も紺野を好きなことを知り、彼女の気持ちを深く思いやり過ぎたつぐみは自分から身を引き、土壇場で遁走してしまう。当然ながら、演劇部は大会に出られなくなった。このサブプロットの挿入により、以前にもつぐみは三角関係から逃げて周囲に迷惑をかけていたことがわかる。そして、作品全体の悲劇的な結末も、見終わった後で思い返せば、疎外感が強くて引っ込み思案なつぐみの性格がどうしようもなく招き寄せたものでしかないと感じられる。
さて、場面は再び、今のつぐみが身を潜めている部屋へ戻る。そこでつぐみは過去からの経緯を振り返ってみるが、ゆめのおかげでつぐみ自身がいつでも最終的には他人に利用されてしまう、すべての元凶はゆめだという気がしてならない。つぐみはゆめにピストルを向けるが、しばらくして自分の頭に銃口を向け変えたところで暗転となる。
つぐみは死んだのだろうか?それともあれは単におもちゃの拳銃であり、実際は失踪してどこかで名前を変えて生きているのだろうか?それはわからない。最後はつぐみとゆめが並んで腰掛けながら楽しそうに語り合うシーンで終わるが、そこはこの世なのか、あの世なのか?きっといくら考えても答えは見つからないのだろうが、それでも全然構わない。私にとって大事なのは、一人の不器用な女性が確かにそこに生きていたという手触りをこの作品が私の心の中に残してくれたことだ。
かなざわリージョナルシアター2019「げきみる」参加作品として、11月23〜24日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団あえない『あやまって、愛』(作・演出:大橋茉歩)は、ドロドロな三角関係を描いたメロドラマであると同時に、主人公である人気作家・谷つぐみ(藤井楓恋)の想像力や才能の部分だけを別人格の「ゆめ」として他の役者(大橋茉歩)が演じるという実験的な仕掛けを持っていた。最初はつぐみとゆめが同一人物であることがややこしかったが、慣れてくると、自分の才能ですら他人事のように眺めてしまうつぐみの疎外感が胸に迫ってきて、作品の悲劇性を形成する大切な要素となっていた。
谷つぐみと彼女の小説に挿絵を描く画家の谷さとる(間宮一輝)という夫婦。お互いを理解し、尊敬し合い、仕事を通じて固く結び付いている理想的なカップルと見えた。しかし、そんな二人の間にさりげなく、編集者の水嶋小夜子(上野ひなた)によって小さな楔が打ち込まれた。単独で画集を出さないかと彼女から持ちかけられたさとるは、最初は冗談かと思ったようだ。だが、何度も繰り返し提案されるうち、彼の中で画家としての野心のようなものがうごめき始めた。やがてつぐみを交えずに会った二人はホテルへ行き、不倫関係に陥る。つぐみは、ショックのあまり仕事を投げ出し、連絡を絶った。そんな時にゴーストライターを雇い、さとるに絵だけ描かせて休載を回避した水嶋は、ある意味で有能な編集者とも言えそうだが、本当に作家やその表現に対して愛と敬意を持っているのかどうかには疑問符がついた。
二人の不倫に気付いた直後、つぐみはいつも行っていた喫茶店の店員・大室飛鳥(玉城知佳乃)からファンですと告げられる。店員は今まで何度もファンレターを送ったというが、つぐみには届かなかった。それは手違いなどでなく、水嶋は読者からのフィードバックをそのままゴミ箱へ放り込んでいたのかもしれない。実際にどうだったのか確証はないものの、次第に水嶋のドライな人間性が浮かび上がってくる。純粋で誠実なさとるをたぶらかし、不倫を指摘されるとさとるから誘ってきたなどと言い逃れる、始末に負えない女。そんな難しい役を演じた上野は、表情や身振りを最小限に抑えつつ、獲物を狙うような強い眼差しや低くてよく通る声などによって大人の女性の可愛さとセクシーさと嫌らしさを見事に醸し出していた。彼女の魅力的な演技こそが、その後のさとるの裏切り、つぐみの没落と続く物語の展開に説得力を持たせていた。
一方、つぐみの想像力だけを擬人化した「ゆめ」をつぐみ本人とは別の役者が演じたことについては、例えば、つぐみが執筆にとりかかる際にはゆめにお願いする形となる。ゆめがちゃんと働いてくれれば、つぐみたちは締め切りにも間に合って編集者の水嶋から、さすがはプロとほめられる結果になる。子どもの頃から物語を書いてきたつぐみにとって、ゆめは「自分の一部」ながら親友でもあった。他の人はゆめの存在にさえ気付かないが、さとるにだけはゆめが見えた。それはさとるの特別な才能の証とも言えた。しかし、さとるとゆめが直接話し合うシーンでは、今度はつぐみがカヤの外に置かれる形となった。それは奇妙な三角関係でもあり、「ゆめを分離されたつぐみとは一体何者なのか」という問いが湧いてきた。結局、さとるが求めていたのはつぐみの才能だけだったのかもしれず、生身の女としてのつぐみの孤独感を際立たせていた。つぐみを演じた藤井は天性のものなのか、深刻な場面でもどこかコミカルで、それによって逆に心の奥底ではどれだけ傷ついているのだろうかと想像力を掻き立てられた。
さらに高校時代の演劇部で、花形役者だった先輩・紺野翔太(能沢秀矢)の相手役を決めるオーディションのエピソードが本筋と並行して交互に語られる。そこではつぐみの想像力豊かな演技が先輩にも気に入られ、見事に相手役を射止めることができた。しかし、一緒に相手役を争っていた友人・三井桃子(荒井優弥花)も紺野を好きなことを知り、彼女の気持ちを深く思いやり過ぎたつぐみは自分から身を引き、土壇場で遁走してしまう。当然ながら、演劇部は大会に出られなくなった。このサブプロットの挿入により、以前にもつぐみは三角関係から逃げて周囲に迷惑をかけていたことがわかる。そして、作品全体の悲劇的な結末も、見終わった後で思い返せば、疎外感が強くて引っ込み思案なつぐみの性格がどうしようもなく招き寄せたものでしかないと感じられる。
さて、場面は再び、今のつぐみが身を潜めている部屋へ戻る。そこでつぐみは過去からの経緯を振り返ってみるが、ゆめのおかげでつぐみ自身がいつでも最終的には他人に利用されてしまう、すべての元凶はゆめだという気がしてならない。つぐみはゆめにピストルを向けるが、しばらくして自分の頭に銃口を向け変えたところで暗転となる。
つぐみは死んだのだろうか?それともあれは単におもちゃの拳銃であり、実際は失踪してどこかで名前を変えて生きているのだろうか?それはわからない。最後はつぐみとゆめが並んで腰掛けながら楽しそうに語り合うシーンで終わるが、そこはこの世なのか、あの世なのか?きっといくら考えても答えは見つからないのだろうが、それでも全然構わない。私にとって大事なのは、一人の不器用な女性が確かにそこに生きていたという手触りをこの作品が私の心の中に残してくれたことだ。
この文章は、2019年11月10日(日)14:00開演のうんダンスぷらうる『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』についての劇評です
意外にも公演は映像から始まった。暗転から明るくなるとそれまでなかった白いスクリーンに、黒い衣装の女性ダンサーが映し出される。最初は一人かと思われたが、次第に後ろから手や足が出てきて、4人で踊り始める。効果音は終始心電図のようにピッピッという規則的な電子音だったのが、ピーというフラットな音へと変化し、それに伴いダンスも収束していく。
スクリーンが上がり、古典的な太鼓のリズムが流れ、女性と子どもが出てくる。4歳の子どもとのことだが、天狗の面をつけ綱飾りを背負い、小人・異形の者にも見える。さらに映像と同じ衣装の女性たちが、中高年ばかり8名程度登場する。全員が黒い小さな頭巾を付け髪も耳も隠し、衣装は黒いノースリーブのワンピースもしくは上下だ。衣装同様、ダンスもミニマムなもので激しい動きなどは見られない。
次第に女性たちが周囲に座ると、男性のダンサー2名と、同じく男性の太鼓奏者が登場した。いずれも和装で足元は袴である。動きにつれて大きく翻る袖や袴が、激しい踊りをより大きく見せている。太鼓の生音も、それまでと同じリズムであるにもかかわらず、圧倒的な鼓動を聞かせていた。
この時点で私が思ったのは、その前の中高年女性たちの踊りがかなりゆったりとしたものだったので、見せ場は男性ゲストに頼らざるを得ないのかというネガティブなもので、残念な気持ちになってしまった。
男性達の踊りの終盤、太鼓の演奏が止み無音になると、ダンサーの荒い呼吸音が聞こえてきた。座っていた女性たちは立ち上がり、周囲をぐるぐると歩き出す。次第に群れをなし、前後を入れ替わりながら集団でぐるぐると歩くその様子は、魚の群れのようであった。
印象的だったのは、3体の大きな黒いクラゲのようなものが登場するシーンだ。ゆらゆらとカサを開いたり閉じたりしながら、女性たちを一人ずつ飲み込んでは吐き出していくそれは、心の闇に思えた。クラゲが消えると、舞台は再び女性たちのみになり、全員で集合して客席に向かってニッと笑ってみせたものの、最後はまるで花が萎れたかのように、首を折り、腕を前にだらんと下ろして動きは止まってしまった。
そこへ、日本語歌詞の明るい曲とともに、白いフレアワンピースの若い女性が軽やかに踊りながら登場する。曲はピチカート・ファイヴの『陽のあたる大通り』(1997年)だ。点在する前屈立ちの中高年女性たちの間を、若い女性は楽しそうに踊りながら行き来する。そして彼女が萎れたかに見える女性たちの背中をぽんとたたくと、ゆっくり一人ずつ伸び始め、笑顔になって踊り始める。最後は、ゲスト4名の男性も混じえて老若男女が自由に楽しく踊るという、多幸感のあるエンディングとなった。
エンディングを見ながら私が目で追うのは、男性ゲストでも白い服の若い女性でもなく、うんダンスぷらうるの中高年女性たちへと変化していた。それはこの作品において描かれる生まれて遊び萎れていくまでのたくさんの名もなき人生を、最後に彼女たちが笑って肯定しているように思えたからかもしれない。
引き締まった肉体美や若さを持つ男性ゲストや若い女性ダンサーが、動きをより引き立てる袖やフレアをまとっていたのに対し、中高年女性達が、皆ノースリーブでタイトな衣装だったのも、あえて今の自らの体=人生を見せるためだったのか?彼女たちのノースリーブから出る腕は、二の腕のたるみもあらわにする。だとしても、天に向かって伸ばされるその腕の動きは生き生きと、そこに普遍的な生の美しさを表現する。
萎れてたっていいじゃない、と笑いながら。
意外にも公演は映像から始まった。暗転から明るくなるとそれまでなかった白いスクリーンに、黒い衣装の女性ダンサーが映し出される。最初は一人かと思われたが、次第に後ろから手や足が出てきて、4人で踊り始める。効果音は終始心電図のようにピッピッという規則的な電子音だったのが、ピーというフラットな音へと変化し、それに伴いダンスも収束していく。
スクリーンが上がり、古典的な太鼓のリズムが流れ、女性と子どもが出てくる。4歳の子どもとのことだが、天狗の面をつけ綱飾りを背負い、小人・異形の者にも見える。さらに映像と同じ衣装の女性たちが、中高年ばかり8名程度登場する。全員が黒い小さな頭巾を付け髪も耳も隠し、衣装は黒いノースリーブのワンピースもしくは上下だ。衣装同様、ダンスもミニマムなもので激しい動きなどは見られない。
次第に女性たちが周囲に座ると、男性のダンサー2名と、同じく男性の太鼓奏者が登場した。いずれも和装で足元は袴である。動きにつれて大きく翻る袖や袴が、激しい踊りをより大きく見せている。太鼓の生音も、それまでと同じリズムであるにもかかわらず、圧倒的な鼓動を聞かせていた。
この時点で私が思ったのは、その前の中高年女性たちの踊りがかなりゆったりとしたものだったので、見せ場は男性ゲストに頼らざるを得ないのかというネガティブなもので、残念な気持ちになってしまった。
男性達の踊りの終盤、太鼓の演奏が止み無音になると、ダンサーの荒い呼吸音が聞こえてきた。座っていた女性たちは立ち上がり、周囲をぐるぐると歩き出す。次第に群れをなし、前後を入れ替わりながら集団でぐるぐると歩くその様子は、魚の群れのようであった。
印象的だったのは、3体の大きな黒いクラゲのようなものが登場するシーンだ。ゆらゆらとカサを開いたり閉じたりしながら、女性たちを一人ずつ飲み込んでは吐き出していくそれは、心の闇に思えた。クラゲが消えると、舞台は再び女性たちのみになり、全員で集合して客席に向かってニッと笑ってみせたものの、最後はまるで花が萎れたかのように、首を折り、腕を前にだらんと下ろして動きは止まってしまった。
そこへ、日本語歌詞の明るい曲とともに、白いフレアワンピースの若い女性が軽やかに踊りながら登場する。曲はピチカート・ファイヴの『陽のあたる大通り』(1997年)だ。点在する前屈立ちの中高年女性たちの間を、若い女性は楽しそうに踊りながら行き来する。そして彼女が萎れたかに見える女性たちの背中をぽんとたたくと、ゆっくり一人ずつ伸び始め、笑顔になって踊り始める。最後は、ゲスト4名の男性も混じえて老若男女が自由に楽しく踊るという、多幸感のあるエンディングとなった。
エンディングを見ながら私が目で追うのは、男性ゲストでも白い服の若い女性でもなく、うんダンスぷらうるの中高年女性たちへと変化していた。それはこの作品において描かれる生まれて遊び萎れていくまでのたくさんの名もなき人生を、最後に彼女たちが笑って肯定しているように思えたからかもしれない。
引き締まった肉体美や若さを持つ男性ゲストや若い女性ダンサーが、動きをより引き立てる袖やフレアをまとっていたのに対し、中高年女性達が、皆ノースリーブでタイトな衣装だったのも、あえて今の自らの体=人生を見せるためだったのか?彼女たちのノースリーブから出る腕は、二の腕のたるみもあらわにする。だとしても、天に向かって伸ばされるその腕の動きは生き生きと、そこに普遍的な生の美しさを表現する。
萎れてたっていいじゃない、と笑いながら。