(劇評・12/14更新)「不意を意図する」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2022年12月3日(土)18:00開演の劇団血パンダ『冬の練習問題』についての劇評です。

何かを不意に思い出す事がある。その「何か」は、過去に自分に起きたことなのか、誰かに聞いたことなのか、それすらもわからない。だけど覚えていた。劇団血パンダの団長、仲悟志は、血パンダの作品がそのように人の印象に残ることを望んでいる、と言う。仲は『冬の練習問題』(作・演出:仲悟志)12月3日公演のアフタートークでそう語った。

劇団血パンダは富山県を中心に活動する劇団である。今回は、かなざわリージョナルシアター2022「げきみる」への初参加だが、これまでの「げきみる」に参加してきた金沢の劇団が持つことのできない空気感を作り出せている劇団だと、観劇して感じた。その空気感の理由としては、アフタートークによれば、仲や一部の団員が、平田オリザに代表される「静かな演劇」に影響を受けていることが挙げられるだろう。静かな演劇の潮流は、金沢にはあまり流れ込んでいなかったように思われる。大阪での演劇経験を持つ仲は、その流れを体感しているのだろう。

そして静かな演劇の影響に加えて、仲のこれまでの社会経験が、血パンダの個性を際立たせているのではないかと私は感じた。当日パンフレットには前口上として、仲が20代の頃に出会った人物が、後に死刑囚となった話が書かれている。仲は彼について「何が変わったのか、最初からそうだったのか、因子はあったのか」と書く。そして「生きていて、不意に入ってしまう筋金は存在する」と書き、自身にもそのような変化があったと続ける。その「不意」を意図的に起こせないかという実験を、仲は行なっているのではないか。

『冬の練習問題』の舞台は、会場であるドラマ工房の広い空間を使うのではなく、隅のほうにある柱の間に設けられていた。柱の背後には階段がある。床にいくつかのスツール、背のある椅子、机が置かれているだけのシンプルな舞台装置だ。観客席は舞台を囲むように3方向から作られている。

階段から、作業服を着た男性(過去を振り返る男:石川雄二)が降りてくる。彼はスツールに腰掛ける。しばらくして階段からは、ジャケットを着た男性(何かを見て何かを考える男:金澤一彦)が降りてきて、作業服の男性に話し掛ける。彼は何かを目撃したようだが、それが何なのかはっきりわかる会話はなされない。2人が去った後、女性(なにかを見直している女:加美晴香)が本を持って降りてくる。続いて別の女性(考えた事を伝えられない女:長澤泰子)も来る。1人目の女性が持っていた本は数学の参考書で、趣味としてやっているのだと言う。コーヒーを持ってきた男性(変わらない男:小柴巧)も加わり、会話は続く。彼らは趣味を持つことなど、同じ話題について話すのだが、その会話はそれぞれに微妙なずれを伴っているように感じられる。

会話中に、ごうごうと音が響き始める。何か事故だろうかと彼らが心配していると、拡声器で男性(事実を受け入れていく男:二上満)の声が流れる。緊急事態らしい。どうやらここは観測所で、ジャケットを着た男性が所長のようだ。所長と、作業服の男性、そして職場を共にしているらしき他の男性達(思いついたことを組み合わせる男:山﨑広介、見ている男:片山翼)もやってきて、彼らはそれぞれがやるべきことのために動きだす。音は収まったり、また大きくなったり変化している。しかし、緊急事態のはずだが、彼らは非常食用のスープの試飲をしたりもする。彼らは一体、そこで何をしており、今、何に備えなければならないのか。それは会話から少しずつ聞き取っていく他ない。じっと耳をそばだて続けるが、彼らの会話にわかりやすいヒントなどなく、また前述したように、会話は続けるうちにずれていってしまう。

その「ずれ」の中でも、スープの試飲をしている場面で、会話がどこに向かっているのかのわかりづらさが印象に残った。オニオンスープの味を女性(長澤泰子)は「寸止め」と評した。しかし、タマネギをこれ以上炒めると甘くなり過ぎてしまうため、このスープはこの味でちょうどいい。なのになぜ自分が「寸止め」と感じたかが女性は気になって仕方ないのだ。その場に居合わせた人達は、彼女の思考を助けようとしてか説明を重ねるが、彼女の納得には至らない。話せば話すほど遠くへ行ってしまっているかのような状況に、少しのいら立ちを覚えもしたが、実際、他者との会話とはこんなふうに行われているのではないだろうか。そして、そのどこへ行くか予想もつかない会話の中にあった些細な一言が、頭に残っていたりする。なんでこれが、と思うものほど、急に記憶に蘇ってくる。公演中に流れていた音のように、去ったかと思えば、また存在を大きくする。

彼らは、12年前に起きた「何か」に似たものと、再び対峙しているようである。会話の中ではっきりとは示されなかったが、私はその「何か」の動きが、鳴ったり止んだりする音として表現されていると推測した。それは自然災害のように思えたが、具体的に何なのかは明らかにはされない。はっきりとこれだとわかってしまうと、納得して忘れてしまう。わからないからこそ、どこかにひっかかる。そのわからなさが不意に蘇ってきたとき、気になって思考が始まる。動き出してしまえば、その前の自分がいた位置からは、少しだけずれてしまうだろう。その動きを観客の内側に起こすことが、仲の意図するところなのではないか。微妙な会話のずれを積み重ねて、その実験は緻密に構成されていた。


(以下は更新前の文章です)


何かを不意に思い出す事がある。その「何か」は、過去に自分に起きたことなのか、それとも誰かに聞いたことなのか、それすらもわからない。だけど覚えていた。劇団血パンダの団長、仲悟志は、血パンダの作品が、そのように人の印象に残ることを望んでいる。これは『冬の練習問題』(作・演出:仲悟志)12月3日公演のアフタートークで聴いた話だ。

劇団血パンダは富山県を中心に活動する劇団である。今回は、かなざわリージョナルシアター2022「げきみる」への参加となったわけだが、血パンダは、これまでの「げきみる」に参加してきた金沢の劇団が、持つことのできない空気感を作り出せている劇団だと、観劇して感じた。

その空気感の理由としては、仲や団員が、平田オリザに代表される「静かな演劇」に影響を受けていることが挙げられるだろう。静かな演劇の潮流は、金沢にはあまり流れ込んでいなかったように思われる。大阪での演劇経験を持つ仲だから、その流れを体感しているのだろう。

そして静かな演劇の影響に加えて、仲のこれまでの社会経験が、彼らの個性を際立たせているのではないかと私は感じた。当日パンフレットには前口上として、仲が20代の頃に出会った人物が、後に死刑囚となった話が書かれている。仲は彼について「何が変わったのか、最初からそうだったのか、因子はあったのか」と書く。そして「生きていて、不意に入ってしまう筋金は存在する」と書き、自身にもそのような変化があったと続ける。その「不意」を仲は、意図的に起こせないかの実験を行っているのではないか。

『冬の練習問題』の舞台は、会場であるドラマ工房にある4本の柱の間に設けられていた。柱の背後には階段がある。床に置かれているのは5つのスツール、背のある椅子と机、そしてもう1脚、背のある椅子。観客席は舞台を囲むように3方向から作られている。

階段から、作業服を着た男性(過去を振り返る男:石川雄二)が降りてくる。彼はスツールに腰掛ける。しばらくして階段からは、スーツ姿の男性(何かを見て何かを考える男:金澤一彦)が降りてきて、作業服の男性に話し掛ける。どうやらスーツ姿の男性は何かを目撃したようだが、それが何なのかはっきりわかる会話はなされない。2人が去った後、女性(なにかを見直している女:加美晴香)が本を持って降りてくる。続いて別の女性(考えた事を伝えられない女:長澤泰子)も来る。女性が持っていた本は数学の参考書で、趣味としてやっているのだとういう。コーヒーを持ってきた男性(変わらない男:小柴巧)も加わり、会話は続く。彼らは共通項について話しているのだが、その会話は、それぞれに微妙なずれを伴っているように感じられる。

会話中に、ごうごうと音が響き始める。何か事故だろうかと彼らが心配していると、拡声器で男性(事実を受け入れていく男:二上満)の声が流れる。緊急事態のようだ。スーツ姿の男性、所長や、作業服の男性、そして職場を共にしているらしき他の男性達(思いついたことを組み合わせる男:山﨑広介、見ている男:片山翼)もやってきて、彼らはそれぞれがやることのために動きだす。音は収まったり、大きくなったり変化している。しかし、緊急事態のはずだが、彼らは非常食用のスープの試飲をしたりもする。彼らは一体、そこで何をしており、今、何に備えなければならないのか。それは会話から少しずつ聞き取っていく他ない。じっと耳をそばだて続けるが、彼らの会話にわかりやすいヒントなどなく、また前述したように、会話は続けるうちにずれていってしまう。

その「ずれ」の中でも、スープの試飲をしている場面の会話の、どこに向かっているのかのわかりづらさが印象に残った。オニオンスープの味を女性(長澤泰子)は「寸止め」と評した。しかし、タマネギをこれ以上炒めると甘くなり過ぎてしまうため、このスープはこの味でちょうどいい。なのになぜ自分が「寸止め」と感じたかが女性は気になって仕方ないのだ。その場に居合わせた人達は、彼女の思考を助けようとしてか言葉を掛けるが、彼女の納得には至らない。話せば話すほど遠くへ行ってしまっているかのような状況に、少しのいら立ちを覚えもしたが、実際、他者との会話とはこんなふうに行われているのではないだろうか。そして、そのどこへ行くか予想もつかない会話の中にあった些細な一言が、頭に残っていたりするのだ。なんでこれが、と思うものほど、急に記憶に蘇ってくる。公演中に流れていた音のように、去ったかと思えば、また存在を大きくする。

彼らは、12年前に起きた何かに似たものと、再び対峙しているようである。それが何なのかは最後まで明らかにはされない。はっきりとこれだとわかってしまうと、納得して忘れてしまう。わからないからこそ、どこかにひっかかる。そのわからなさがふいに蘇ってきたとき、わからなさが気になって思考が始まる。動き出してしまえば、その前の自分がいた位置からは、少しだけずれてしまうだろう。その動きを誰かの内側に起こすことが、仲の意図するところなのではないか。