(劇評・12/1更新)「コントロールできない他人に働きかけるということ」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2021年11月20日(土)19:00開演のフガフガLaboratory『マルチダ』についての劇評です。

 「あ、マチルダじゃないんだ」公演案内の立て看板を見ていた人が、そう言葉を発していた。タイトルを読み違えてしまうところから、フガフガLaboratory第14回研究発表会『マルチダ』(作・演出:ロビン!)の企みは始まっている。マチルダではなく、「マルチだ」である。これはマルチ商法を取り上げた話なのだ。しかし、それだけではなかった。マルチで、心理戦で、パンデミックで、ゾンビで、密室でと、そこに入れ込まれている要素が多い。人間ドラマ? 愛憎劇? ミステリー? フガフガLaboratoryはこれらの物事を全て織り込んで、一本の芝居に仕立てあげた。

 会場であるドラマ工房に入ると、壁面にずらりと高く積まれたダンボール箱の山が目に入った。山の中央付近は空けられており、人が通れる出入口となっている。その手前には、床から一段高くなった舞台が作られている。アスタリスク(*)を横にしたような形で、舞台真ん中から6方向に突き出た部分には、それぞれ台形の椅子が置かれている。そして各椅子の下には木箱が入っている。

 登場する6人は、シェアハウスで暮らしている。彼らは、起業するという目的の元に集っているようだ。電話やネットを駆使して誰かを懸命に説得する様子は、どう見てもマルチ商法の手口である。だが、新入りの会社員、堂本美里(坂井紗衣)や、離婚したばかりの女性、室屋茉莉子(坂本☆ユキ枝)は、起業できるという話を信じきっている。堂本を誘った小宮あきら(伊藤梢)や、催眠術師のジョー秋川(福田ユキヒロ)、会社員らしき斉藤和文(塚町幸憲)、何をしているのかわからないがやたらチャラい佐山正平(ちゃ~り~)ら4人は、新入り2人に彼らの本当の狙い、マルチ商法のカモにしたということを悟られないよう、曖昧に取り繕う。
 
 事件は彼らがパソコンを使いネット飲み会の勧誘をしている時に起きた。ネットの先の別々の相手、柿谷(声:みなみりんご)、紺野(声:田村ちぐさ)、飯村(声:こーすけ)が、同じタイミングで血を吐いて倒れたのだ。そしてネットが不通となる。外では何かが起きているのではないか。彼らは調べようとするが、スマホが無くなっている。ネット回線は切られていた。斉藤は、外に出たら死ぬと主張。さらに、外へ出ようとすると、なぜか彼らは不思議な踊りを踊ってしまい、足止めされてしまう。これは催眠術師の秋川の仕業なのか。だとしてもなぜ。地下の部屋に閉じ込められた彼らの間で、少しずつこの事件の真相に近づく会話がなされていく。

 緻密に構成された戯曲である。ラストの種明かしによって、なるほどあれがそうだったのかと気付かされる細かな設定がいくつもあった。伏線はきちんと張られていた。これはミステリーを好む者にすれば高得点を上げられる作品なのかもしれない。筆者にその心得がないことが、この芝居を観終えて、何か気持ちがすっきりしない理由なのだろうか。オチに向かって、それまでのシーンや役者の動きやセリフがオチを構成するためのパーツとして逆に配置されていったような、そんな気がしてしまったのだ。

 最初に、読み違えの話をした。そもそもこの芝居を、マルチ商法に関わる人々の悲喜交々なのだろうと思っていた筆者が読み違えていたのかもしれない。ぱっと見で『マルチダ』をマチルダと読んで、そうだと思い込んでしまうように、人は自分の都合のよいように物事を見る。都合よく受け取ろうとしてみた筆者だが、『マルチダ』の構成の複雑さがそれを拒んだ。あのエピソードも、そのエピソードも、なぜそうなってしまったのか、登場人物達の心情がもっと知りたかった。

 作・演出のロビン!は当日パンフレットに寄せた文章で「その理由にもその態度にも意味なんかありません。あの人は私に冷たい。ただそれだけです」と書く。そこから文章は「他人をコントロールするなんて出来る訳ないし、自分の事すらコントロール出来ません」と書かれ、「全部無意味。それなら自由にやろうぜってことです」と結論付けられる。意味を求めると傷付く。ならば無意味にすればよい。しかしコントロールできない他人は、自分に都合がいいように意味を付けてくる。舞台をコントロールする演出家の意図をうまく掴もうとすることもできるが、演出家の制御の手をすり抜けて、別の意味を見つけることもできる。そこが創作物を世に出すことの恐ろしさでもあるし、面白さでもある。『マルチダ』の世界では、舞台上に登場しない演出家の強い制御力が働いていた。マルチ商法を統率する師匠が、登場人物たちの会話上だけの存在で、姿は見せなかったように。物語から新しい解釈を引き出す隙間がなかったことは、その世界が閉じているという点で残念である。


(以下は更新前の文章です)


 「あ、マチルダじゃないんだ」公演案内の立て看板を見ていた人が、そう言葉を発していた。タイトルを読み違えてしまうところから、フガフガLaboratory第14回研究発表会『マルチダ』(作・演出:ロビン!)の企みは始まっている。マチルダではなく、「マルチだ」である。これはマルチ商法を取り上げた話なのだ。しかし、それだけではなかった。マルチで、心理戦で、パンデミックで、ゾンビで、密室でと、そこに入れ込まれている要素が多い。人間ドラマ? 愛憎劇? ミステリー? なんとまとめたらよいものか。これらの物事を全て織り込んで一本の芝居に仕立てあげた劇団に、まず拍手を送りたい。

 会場であるドラマ工房に入ると、壁面にずらりと高く積まれたダンボール箱の山が目に入った。山の中央付近は空けられており、人が通れる出入口となっている。その手前には、床から一段高くなった舞台が作られている。アスタリスク(*)を横にしたような形で、舞台真ん中から6方向に突き出た部分には、それぞれ台形の椅子が置かれている。そして各椅子の下には木箱が入っている。この舞台の奥には棚に載せたテレビが置かれていて、開演までの間、前説や宣伝などの動画を流していた。テレビと棚がスタッフにより撤去されると、明かりが落ちる。

 登場する6人は、シェアハウスで暮らしている。彼らは、起業するという目的の元に集っているようだ。電話やネットを駆使して誰かを懸命に説得する様子は、どう見てもマルチ商法の手口である。だが、新入りの会社員、堂本美里(坂井紗衣)や、離婚したばかりの女性、室屋茉莉子(坂本☆ユキ枝)は、起業できるという話を信じきっている。堂本を誘った小宮あきら(伊藤梢)や、催眠術師のジョー秋川(福田ユキヒロ)、会社員らしき斉藤和文(塚町幸憲)、何をしているのかわからないがやたらチャラい佐山正平(ちゃ~り~)ら4人は、新入り2人に彼らの本当の狙い、マルチ商法のカモにしたということを悟られないよう、曖昧に取り繕う。
 
 事件は彼らがパソコンを使いネット飲み会の勧誘をしている時に起きた。ネットの先の別々の相手、柿谷(声:みなみりんご)、紺野(声:田村ちぐさ)、飯村(声:こーすけ)が、同じタイミングで血を吐いて倒れたのだ。そしてネットが不通となる。外では何かが起きているのではないか。彼らは調べようとするが、スマホが無くなっている。ネット回線は切られていた。斉藤は、外に出たら死ぬと主張。さらに、外へ出ようとすると、なぜか彼らは不思議な踊りを踊ってしまい、足止めされてしまう。これは催眠術師の秋川の仕業なのか。だとしてもなぜ。地下の部屋に閉じ込められた彼らの間で、少しずつこの事件の真相に近づく会話がなされていく。

 緻密に構成された戯曲である。ラストの種明かしによって、なるほどあれがそうだったのかと気付かされる細かな設定がいくつもあった。伏線はきちんと張られていた。これはミステリーを好む者にすれば高得点を上げられる作品なのかもしれない。筆者にその心得がないことが、この芝居を観終えて、何か気持ちがすっきりしない理由なのだろうか。オチに向かって、それまでのシーンや役者の動きやセリフがオチを構成するためのパーツとして逆に配置されていったような、そんな気がしてしまったのだ。

 最初に、読み違えの話をした。そもそもこの芝居を、マルチ商法に関わる人々の悲喜交々なのだろうと思っていた筆者が読み違えていたのかもしれない。ぱっと見で『マルチダ』をマチルダと読んで、そうだと思い込んでしまうように、人は自分の都合のよいように物事を見る。都合よく受け取ろうとしてみた筆者だが、『マルチダ』の構成の複雑さがそれを拒んだ。あのエピソードも、そのエピソードも、なぜそうなってしまったのか、登場人物達の心情がもっと知りたかった。

 作・演出のロビン!は当日パンフレットに寄せた文章で「あの人が私に冷たいのには理由があると思いたかったり。(略)だけど、その理由にもその態度にも意味なんかありません。あの人は私に冷たい。ただそれだけです」と書く。作家にも意味を求める気持ちはある。しかしそこから文章は「世の中は思い通りにならないことばかりなんですよ。そういうものなんです。他人をコントロールするなんて出来る訳ないし、自分の事すらコントロール出来ません」と書かれ、「全部無意味。それなら自由にやろうぜってことです」と結論付けられる。

 意味を求めると傷付く。ならば無意味にすればよい。しかしコントロールできない他人は、自分に都合がいいように意味を付けてくる。舞台をコントロールする演出家の意図をうまく掴もうとすることもできるが、演出家の制御の手をすり抜けて、別の意味を見つけることもできる。そこが創作物を世に出すことの恐ろしさでもあるし、面白さでもある。しかし筆者が『マルチダ』のあれ、実はああでこうでそうだったのでは? なんて考えている状態は、演出家のコントロール下に置かれてしまっているのだろうか?