(劇評)「稽古場でほとばしる熱気をそのまま舞台へ」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2021年11月6日(土)13:00開演のAgクルー『鏡花、秋聲、犀星 三文豪 読み合わせの会』についての劇評です。

毎年恒例となった演劇祭「かなざわリージョナルシアター2021『げきみる』」の先陣を切り、シニア演劇集団Agクルーによる『鏡花、秋聲、犀星 三文豪 読み合わせの会』が11月6、7日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。50歳以上のメンバーで構成される同劇団は、ほぼ年1回のペースで公演を行ってきたが、昨年はコロナ禍で中止。今回の演劇祭では、当初予定していた別の団体が感染再拡大への懸念から急遽辞退したため、ピンチヒッターとして本番の約1ヶ月前に出演が決まった。読み合わせた作品は室生犀星「大槻伝蔵」、徳田秋声「余震の一夜」、泉鏡花「紅玉」の3本となる。

このうち『大槻伝蔵』では、主人公である加賀藩士・大槻伝蔵(笠本俊介)の屋敷へ、近隣の大聖寺藩から駆け落ちしてきた若侍(遠田昌子)が訪ねてくる。泊まってもいいという返事に若者は喜んで相手の女(山本久美子)を迎えに行く。だが、途中ですれ違いになったらしく、待ち切れずに男を追って来た彼女は一人で伝蔵の前に姿を現す。気品に満ちた武家の娘であり、ト書き(種本敏江)は「類なき美貌」と最大限の賛辞を呈してさらにハードルを引き上げる。劇団の応募要件からして、山本の実年齢は50歳以上。大丈夫なのだろうか。以前から地元で演劇活動に携わり、声の研鑽にも熱心に取り組んできたことを私は知っている。しかし、彼女が10代の娘に見えなければ、この芝居は成り立たない。山本は能の様式を意識した足取りでそろりそろりと舞台の真ん中へ進み出た。伝蔵と向かい合い、ゆっくりと座る。第一声。彼女は少しくぐもった声で静かに語り始めた。適切な声の使い方だった。高名な藩士の前で、気後れして息を詰まらせながらも、育ちの良い娘らしく、素直に勇気を奮い起こして気丈に支援を求める。そこにいるのは確かに10代の美少女だった。その時、私は演劇でしか味わえない至福を覚えた。

決してハッピーエンドではない。幸せそうな二人に嫉妬した家来の要三は、身元不明の人間を引き受けることが心配になってきた伝蔵の気持ちに先回りし、若侍を亡き者にしてしまう。さらに事態を隠蔽するため、誇り高き娘をも始末しようとするのだが、すでに彼女の魅力にメロメロになっていた伝蔵は背後から要三を刺し殺す。こんな狂気じみた世界で、何が起こっているのかまだ知らされていない無垢な娘。そんな彼女に猫撫で声で近づいていく伝蔵。欲望のタガが外れてしまった結果、自分も相手ももろともに巻き込んで洪水に押し流されるような、救いのない退廃的な雰囲気が充満していた。

続く『余震の一夜』は、大正12(1923)年に発生した関東大震災の直後、余震に怯える人々を描いた小説だ。作家本人らしい私(高松玲子)と妻(廣瀬洋子)、子供たち(山本久美子、村井智子)、避難してきた人々(牛村幸子、中村万紀子)、井村の婆さん(牧田信子)が登場し、演出の高田伸一が地の文を読んだ。人間は危機を覚えた時には特別な理由もなく集まってしまうものなのだろうか。不安ゆえに気分が高揚し、遠慮会釈もなく饒舌になり、お互いの間にあった垣根を取り払っていく。関東大震災と言えば、その後の戦争への歩みも連想してしまって何となく殺伐としたイメージが付きまとうが、実際にその渦中を生きた庶民たちのあっけらかんとしたユーモラスな対応を書き残した記録は貴重だと思った。

最後の『紅玉』は、大正2(1913)年に発表された戯曲。明治時代の華族らしき奥様が、指輪をカラスに奪われるが、その指輪をカラスから受け取った青年画家(遠田昌子)を豪邸に招き入れ、旦那様が留守の間に気まぐれな恋愛を楽しむという物語。今回の上演では、カラスの頭部をかたどった頭巾を被った黒装束の侍女(種本敏江)が登場し、旅行と見せかけて実際は家の周囲を見張っていた旦那様(笠本俊介)と遭遇。二人の会話を通して上流階級の浮世離れした生活が暴露される。そんな人間たちの世界と並行して、三羽のカラス(野崎明美、山本久美子、堅田光彩恵)が奥様と青年画家のいきさつを巡ってペチャクチャと噂話に花を咲かせるシーンはシェークスピアに出てくる魔女や妖精たちのようでもあり、基本的に人間しか登場しない近代劇とは相容れないものだ。同年に発表された『夜叉ヶ池』や『海神別荘』、さらに後年の『天守物語』など有名な戯曲にも出てくる異世界の原型とも感じられた。鏡花という人は意識的に近代を逆走していたのかもしれないという発見は私には新鮮だった。

全体を通して見ると、江戸時代を扱いながらも人間のエゴや醜さを抉り出した『大槻伝蔵』は、むしろ近代的な演劇観に則った作品だった。次の『余震の一夜』では、大地震で一時的に文明社会が機能不全に陥った際、それまで人と人を隔てていた垣根が一挙に取っ払われたような解放感が溢れていた。最後の『紅玉』は、むしろ近代以前の演劇観へのオマージュのように感じられた。3本のラインナップを続けて見た後で、この流れの先にあるのは何だろう、と今後の展開に期待が高まる一方だった。

俳優たちは皆、台本を手に持って演じた。この1ヶ月間、さぞかし慌ただしい稽古が積み重ねられたであろう。タイトルの「読み合わせ」という言葉には、「あくまでも本番に向けて制作して行く途中の段階」というニュアンスも漂う。だからと言って、必ずしも準備不足への弁解とも思えなかった。なぜなら3作品とも、新たな挑戦への意欲が漲っていたからだ。小綺麗に体裁ばかり整えた本番よりは、未完成でもいい、稽古場で一人一人が自分の役と向かい合う中で思いがけず奔り出てしまう熱気、それらを飾らずにそのまま舞台上へ投げ出したいという演出の意図がうかがえた。