(劇評・11/17更新)「戯曲との対話への誘い」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2021年11月6日(土)13:00開演のAgクルー『読み合わせ三文豪』についての劇評です。

 Agクルーは、50歳以上の団員による、シニア演劇集団である。かなざわリージョナルシアター2021「げきみる」第1週の上演として彼らが見せたのは、「読み合わせの会」であった。読み合わせとは一般に、劇団などの稽古で俳優が脚本を手に、それぞれの台詞を読み合い練習することを表し、朗読や芝居とは違う。この読み合わせという形で、Agクルーは金沢の三文豪である室生犀星、徳田秋聲、泉鏡花の作品を1作ずつ取り上げ、観客に提示した。

 会場である金沢市民芸術村ドラマ工房内の、段差は設けられていないフラットな床面に、観客用のパイプ椅子が並べられていた。壁面には、色とりどりの着物の帯が15本掛けられている。床には中央奥に長机が2つ、パイプ椅子が4つ。上手と下手の奥にもパイプ椅子が置かれている。下手には木製の机と椅子があり、中央付近にも同じ木製の机と椅子がある。上手手前には照明と音響卓が設置されており、高田伸一が照明と音響を担当した。高田によって前説が始まり、舞台に団員が登場する。彼らは羽織姿で、かっちりとした着物ではないものの和を感じさせる。

 最初の戯曲は室生犀星の「大槻伝蔵」。伝蔵(キャストは日替わり・6日の読み手:笠本俊介)を慕って訪ねてきた若い侍(遠田昌子)と女(山本久美子)。彼らに惹かれた伝蔵は家に泊めてやろうとする。しかし、伝蔵に長く奉公してきた要三(堅田光彩恵)は、若侍と女を受け入れようとする伝蔵に反対し、二人の腹の探り合いが始まる。
 全員、脚本を持って読む形を取っているが、朗読のようにじっと椅子に座って読むのみではない。要三や女中のおしず(能崎明美)が入れ替わり立ち替わり、伝蔵の元へ状況を伝えにくる。ト書きも読まれ(種本敏江)、下手側に置かれた行灯の周りに蛾を舞わせ(廣瀬洋子)、上手奥では能管が吹かれたり、太鼓が叩かれたりする(高松玲子)。楽器の演奏はこの戯曲でのみ為された。

 続いては徳田秋聲「余震の一夜」。机や椅子は団員によって位置を変えられ、全体として半円状に並べられた。この作品は戯曲ではなく、小説である。小説は「私」の視点で語られている。地の文の読み手は高田伸一が担当するが、私のセリフは高松玲子が読み手であった。関東大震災の余震があった夜に、表に出てきた住人達。妻(廣瀬洋子)、長男(山本久美子)、二男(村井智子)と、S氏(牛村幸子)、T氏(中村万紀子)。不安な状況に置かれた彼らの会話から、住んでいる家のこと、子どものこと、孤独な井村の婆さん(牧田信子)のことなどから、それぞれが抱えている思いが浮かび上がってくる。

 最後は泉鏡花「紅玉」である。二つの長机が中央に真っ直ぐ並べられ、机の先頭にキャンバスが置かれた。ト書きを高田伸一が読み上げる。酔った画工(遠田昌子)を囃す小児達(村井智子、牛村幸子、牧田信子、中村万紀子、廣瀬洋子)。小児達に囃されて踊る画工の脳裏には、三羽のカラス(能崎明美、山本久美子、堅田光彩恵)や紳士(笠本俊介)の姿が浮かぶ。そもそもは、侍女(種本敏江)のカラスの扮装を婦人が気に入ったことから始まった。カラスの扮装をした婦人と、画工が出会ったのだ。画工は婦人との思いを胸に絵を描き、展覧会に出品したのだが、落選してやけになっているのである。疲れ果てた画工を取り巻いて、現実と幻想の狭間の世界が展開される。

 近代文学の、そして作家それぞれに独特の文体があり、聴いただけではすぐに理解できない言葉使いも多い。原本の文章を読んでみたい、そう思わされた。興味を覚えさせ、原本に当たりたいと感じさせてくれたことで、Agクルーの試みは成功していると言っていいだろう。音として聴くことで、意味は取れなくとも耳には残る。何も聴いていない状態より、音を聴いているほうが言葉を掴みやすい。それによって、多少難解な文体にも挑めるのではないか。郷土の文豪として彼らの名前を知ってはいるが、ほとんど読んだことのない筆者にとっては、作品に触れる良い機会となった。
 そしてAgクルーの狙いはもう一つあるのではないか。それは、戯曲を読み、戯曲と対話する行為への誘いだ。芝居のように大がかりな物でなくてもいい。戯曲に触れて、声に出してみること。音にして、耳で捉えることで感じられる思いがある。その面白さを彼らは伝え、戯曲を楽しむ世界へと手招きをしてくれた。

 この読み合わせの会は、もともと配信で展開されていたものである。YouTubeに「大槻伝蔵」が上げられており、その作品は、金沢市民芸術村の里山の家にて撮影されている。コロナ禍において、Agクルーも本公演が中止となるなど、活動が難しい局面もあっただろう。しかしその中でできる表現として、読み合わせという形態を彼らは見つけた。今回上演した読み合わせのような形であれば、大きな舞台装置がなくとも実施できるだろう。また、舞台装置がないことによって、観客がそれぞれに想像を広げることができるといった面もある。既に様々な文化施設で朗読を披露しているAgクルーだが、今後さらに発表の機会を増やし、観客と戯曲との出会いの橋渡しとなることができるのではないだろうか。


(以下は更新前の文章です)


 Agクルーは、50歳以上の団員による、シニア演劇集団である。かなざわリージョナルシアター2021「げきみる」第1週の上演として彼らが観せたのは、「読みあわせの会」であった。金沢の三文豪である室生犀星、徳田秋聲、泉鏡花の作品を1作ずつ取り上げ、朗読とも芝居とも違う、読みあわせという形で観客に提示した。

 会場である金沢市民芸術村ドラマ工房内には、観客席や舞台などは作られておらず、後方に観客用のパイプ椅子が並べられていた。前方壁面には、色とりどりの着物の帯が15本掛けられている。床には中央奥に長机が2つ、パイプ椅子が4つ。上手と下手の奥にもパイプ椅子が置かれている。下手には木製の机と椅子があり、中央付近にも同じ木製の机と椅子がある。上手手前には照明と音響卓が設置されており、高田伸一が照明と音響を担当した。高田によって前説が始まり、舞台に団員が登場する。彼らは羽織姿で、かっちりとした着物ではないものの和を感じさせる。

 最初の戯曲は室生犀星の『大槻伝蔵』。伝蔵(読み手:笠本俊介)を慕って訪ねてきた若い侍(遠田昌子)と女(山本久美子)。彼らに惹かれた伝蔵は家に泊めてやろうとする。しかし、伝蔵に長く奉公してきた要三(堅田光彩恵)が、伝蔵の心の変化に気付き、二人の腹の探り合いが始まる。
 全員、脚本を持って読む形を取っているが、朗読のようにじっと椅子に座って読むのみではない。要三や女中のおしず(能崎明美)が入れ替わり立ち替わり、伝蔵の元へ状況を伝えにくる。ト書きも読まれ(種本敏江)、下手側に置かれた行灯の周りに蛾を舞わせ(廣瀬洋子)、上手奥では能管が吹かれる(高松玲子)。

 机や椅子は団員によって位置を変えられ、全体として半円状に並べられた。続いては徳田秋聲『余震の一夜』。この作品は戯曲ではなく、小説である。地の文の読み手は高田伸一が担当し、私(高松玲子)の視点で語られる。関東大震災の余震があった夜に、表に出てきた住人達。妻(廣瀬洋子)、長男(山本久美子)、二男(村井智子)と、S氏(牛村幸子)、T氏(中村万紀子)、そして井村の婆さん(牧田信子)。不安な状況に置かれた彼らの会話から、次第に浮かび上がってくるものがある。

 二つの長机が中央に真っ直ぐ並べられ、机の先頭にキャンバスが置かれた。最後は泉鏡花『紅玉』である。ト書きを高田伸一が読み上げる。酔った画工(遠田昌子)を囃す小児達(村井智子、牛村幸子、牧田信子、中村万紀子、廣瀬洋子)。小児達に囃されて踊る画工の脳裏には、三羽のカラス(能崎明美、山本久美子、堅田光彩恵)や紳士(笠本俊介)の姿が浮かぶ。そもそもは、侍女(種本敏江)のカラスの扮装を婦人が気に入ったことから始まった。現実と幻想の狭間の世界が展開される。

 近代文学の、そして作家それぞれに独特の文体があり、聴いただけではすぐに理解できない言葉使いも多い。観客にも脚本が欲しい、文章を読んでみたい、そう思わされた。興味を覚えさせ、原本に当たりたいと感じさせてくれたことで、Agクルーの試みは成功していると言っていいだろう。音として聴いただけで意味は取れなくとも、なんとなく耳には残る。その記憶があれば、多少難解な文体にも挑めるのではないか。郷土の文豪として彼らの名前を知ってはいるが、ほとんど読んだことのない筆者にとっては、作品に触れる良い機会となった。
 そしてAgクルーの狙いはもう一つあるのではないか。それは、戯曲を読み、戯曲と対話する行為への誘いだ。芝居のように大がかりな物でなくてもいい。戯曲に触れて、声に出してみること。音にして、耳で捉えることで感じられる思いがある。その面白さを彼らは伝え、戯曲を楽しむ世界へと手招きをしてくれた。

 この読みあわせの会は、もともと配信で展開されていたものである。YouTubeに『大槻伝蔵』が上げられており、その作品は、金沢市民芸術村の里山の家にて撮影されている。コロナ禍において、Agクルーも本公演が中止となるなど、活動が難しい局面もあっただろう。しかしその中から、読みあわせという形態での発表を彼らは見つけた。本公演が行える状況になるのが一番ではあるが、今、できる限りの形での表現を続けていこうという、彼らの努力を称えたい。
 読みあわせの形であれば、大きな舞台装置がなくとも実施できるだろう。また、舞台装置がないことによって、観客がそれぞれに想像を広げることができるといった面もある。既に様々な文化施設で朗読を披露しているAgクルーだが、さらに発表の機会を増やし、観客と戯曲との出会いの橋渡しとなることができるのではないだろうか。